中国,南宋時代の思想家。字は同甫,号は竜川。浙江省永康の人。事功学派の雄。没落した貧しい家庭に生まれ,51歳でようやく科挙に合格(その翌年に没),その間何度も入獄の憂目にあうなど,実生活は不遇であった。その人となりは豪放で,朱熹(しゆき)(子)からその学問も含めて〈粗豪〉と批判されたが,明の李贄(りし)(卓吾)はかえってその〈粗豪〉を賞賛している(《蔵書》巻十六,名臣伝)。彼は朱熹に変わらぬ敬意を抱きつづけたが,その天理人欲説や義利の弁(道義と功利の峻別)には不満を隠さず,功業が成就してこそ有徳の人となり,事業が完成してこそ道理が立つと言い,功利を離れて徳も理もありえないと主張した。また彼は,金との抗戦を叫びつづけた熱烈な民族主義者であった。文章も巧みで,主著に《竜川文集》がある。
執筆者:三浦 国雄
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中国、南宋(なんそう)の学者。永康(えいこう)(浙江(せっこう)省永康県)の人。字(あざな)は同甫(どうほ)、号は龍川(りゅうせん)、諡(おくりな)は文毅(ぶんき)。若いころより才気にあふれ、喜んで兵法を談じ、筆をとるとたちどころに数千言の文章を書いたという。1163年、宋と金(きん)との和睦(わぼく)が成立するや、彼はその和睦に反対し、中興論を上奏したが顧みられなかった。1178年ふたたび上奏文を出し、感動した光宗(在位1189〜1194)は大いに抜擢(ばってき)しようとしたが、辞退して郷里に帰っている。1193年進士第一位に及第し、簽書(せんしょ)建康府判官を授けられるが、翌1194年没している。学問の特徴は経世済民にあり、もっぱら事功に重点を置いたため事功学派、永康学派といわれる。著書に『龍川文集』30巻、『龍川詞』1巻がある。
[菰口 治 2016年2月17日]
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…中国,南宋時代,浙江省におこった学派。婺(む)州永康県の陳亮(ちんりよう),温州永嘉県の薛季宣(せつきせん)(1134‐73),陳傅良(ちんふりよう)(1137‐1203),葉適(しようてき∥ようてき)らがその代表的学者。その出身地にちなんで永康・永嘉学派ともいい,功利学派ともいう。…
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