平安末期の僧。後白河院近臣,法勝寺執行。村上源氏雅俊の孫,仁和寺法印寛雅の子。1177年(治承1)同じく院の近臣藤原成親,西光(さいこう)らとともに京都鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘で平氏討滅を謀議したが,多田行綱の密告で露顕し,計画は失敗に終わった(鹿ヶ谷事件)。同年6月3日藤原成経,平康頼とともに薩摩国鬼界ヶ島に配流された。翌年中宮平徳子の安産を祈る大赦に俊寛だけはゆるされず,同島で没した。
執筆者:飯田 悠紀子
《平家物語》によれば平判官康頼と丹波少将成経は島内を熊野詣の霊場に見立て,また康頼は祝詞を作り,率都婆を海に流すなどして帰洛を祈ったが,俊寛は〈天性不信第一の人〉にて神仏にも祈らず,翌年の中宮徳子の御産にともなう大赦では,俊寛一人が謀反の張本として島に残される。俊寛は餓鬼に見まがうほど落ちぶれるが,京で召し使っていた侍童の有王(ありおう)から,都での妻子の死などを知らされ,悲嘆のうちに死んでいく。有王は俊寛の遺骨を高野山に納めて出家し,諸国七道を修行して主の後世を弔ったという。柳田国男は伝承者としての有王の役割に注目して,有王の名が俊寛の亡魂の消息を語る高野聖たちの通り名だったとし,九州地方を中心に近畿・北陸にまで伝えられる俊寛・有王の伝説にしても,有王を称する複数の伝承者の足跡と無関係ではないとしている。富倉徳次郎は康頼を中心に語られる鬼界ヶ島説話の前半部に注目して,この説話の出所を,康頼が帰洛後住んだ東山の双林寺周辺に求めている。康頼は,説経の手控え本ともいうべき説話集《宝物集》の作者とされる人物でもある。なお,謡曲《俊寛》には,俊寛が熊野詣から帰った康頼,成経を出迎え,水酒の宴を催すところを加えているが,大筋において《平家物語》に直接取材している。近松門左衛門作《平家女護島(へいけによごのしま)》では,平教経のはからいで俊寛にも赦文が与えられるが,成経の愛人千鳥の悲嘆を見かねて,彼女を船に乗せることにし,これを拒んだ瀬尾を刺し殺して俊寛は自分から島にとどまっている。
執筆者:兵藤 裕己
能の曲名。喜多流は《鬼界島(きかいがしま)》と称する。四番目物。作者不明。シテは俊寛僧都。清盛の娘の中宮が懐妊し,安産祈願のために赦免使(ワキ)が鬼界島に赴く。島に流されているのは,平氏政権転覆を謀った俊寛,丹波少将成経(ツレ),平判官康頼(へいはんがんやすより)(ツレ)の3人だった。3人が,谷水を酒になぞらえて飲み交わし,栄華の昔をしのび,今の身の上を嘆いているところへ,使いが到着する。赦免状に自分一人だけ名がないと知った俊寛は,怒りと絶望にうちふるえる(〈クドキグリ・クドキ・クセ〉)。舟出の時が来て,艫綱(ともづな)にしがみつく俊寛は突き離される。力も尽きた俊寛は,なぎさから寂しく舟影を見送る(〈ロンギ〉)。平曲の《足摺(あしずり)》の劇化なので,《大原御幸》などと同様に舞踊的部分が皆無である。シテはこの能専用の〈俊寛〉という面をかけるが,能では現に生きている男役が面を用いるのは,はなはだ異例である。人形浄瑠璃《平家女護島(へいけによごのしま)》の原拠。
執筆者:横道 万里雄
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平安末期の僧侶(そうりょ)。村上源氏の大納言(だいなごん)雅俊(まさとし)の孫で、仁和寺法印(にんなじほういん)寛雅(かんが)の子。父が長らく法勝寺(ほっしょうじ)上座(じょうざ)の地位にあったところから、いち早く後白河(ごしらかわ)法皇の信任を得て法勝寺執行(しゅぎょう)に任じられ、また法皇の近習(きんじゅう)となった。俊寛はかねて平清盛(きよもり)の専横を憎んでいたため、1177年(治承1)同じく院の近習であった藤原師光(もろみつ)(西光(さいこう))、藤原成親(なりちか)、平判官康頼(やすより)らとともに、平氏討伐の謀(はかりごと)を京都東山の鹿ヶ谷(ししがたに)山荘でめぐらした。しかしその企てに参加していた多田行綱(ただゆきつな)の密告によって謀議は失敗、彼らは全員捕らえられた。世にいう鹿ヶ谷事件がこれである。かくして俊寛は同年6月3日、藤原成経(なりつね)、平康頼とともに福原に送られ、ついで薩摩(さつま)国(鹿児島県)の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流された。翌78年7月3日、中宮御産祈祷(きとう)のための大赦があって、成経、康頼の両名は帰京を許されたが、ひとり俊寛のみは同島に残留を命じられた。その後の彼の動向を知る史料は『平家物語』や『源平盛衰記』など小説的に脚色されたものが大半であるため、正確にはわからないが、流罪生活3年にして同島で没したことは確かであろう。享年37歳という。俊寛の流罪生活のありさまは各種の能に脚色され、浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)にも取り入れられた。近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作の浄瑠璃『平家女護島(にょごのしま)』はその代表的作品である。
[鈴木国弘]
能の曲目。四番目物。五流現行曲。喜多(きた)流は曲名を「鬼界島(きかいがしま)」とする。作者不明。出典は『平家物語』。赦免の使い(ワキ)が船頭(アイ)を伴って出、鬼界島に赴くことを告げる。2人の流人、成経(なりつね)・康頼(やすより)(ツレ)は帰国を祈る神信心の態。それを白眼視する俊寛(シテ)。孤島での生活を悲しむ3人。そこへ赦免の使いが到着する。俊寛はおうへいに赦免状を康頼に読み上げさせる。赦免にひとり漏れた俊寛は、絶望し、せめて九州まで乗せてくれとかきくどく。乗船する人々。袖(そで)にすがり、舟(作り物)のともづなにすがった俊寛も、浜辺に倒れ伏して慟哭(どうこく)する。慰める人々。去っていく船。ひとり残された俊寛。方形の舞台と長い橋懸りをもつ能舞台の、演出効果の際だつ終曲である。極限状態の人間の弱さを描く現在能の名作。「俊寛」という専用面を用いる。打ちひしがれた流人の俊寛、反骨精神のあらわな俊寛、神経質な陰謀家らしい俊寛等々、さまざまな演出の主張がある。なお、「俊寛」の通称で知られる近松門左衛門の浄瑠璃(じょうるり)『平家女護島(へいけにょごのしま)』二段目「鬼界が島」は本曲によっている。
[増田正造]
(木村真美子)
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生没年不詳。平安後期の真言宗僧,後白河法皇の近臣。仁和(にんな)寺寛雅(かんが)の子。出家後少僧都(そうず)に昇り,父の跡をついで法勝(ほっしょう)寺座主(ざす)となる。1174年(承安4)八条院の仁和寺蓮華心院供養に上座を勤め,その賞によって子俊玄(しゅんげん)が法橋に任じられる。77年(治承元)鹿ケ谷(ししがたに)山荘での平氏追討謀議が発覚し,藤原成経(なりつね)・平康頼(やすより)とともに薩摩国鬼界ケ島に流罪となり,同地で没した。
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…フシ物。平氏政権転覆の謀議の罪で鬼界ヶ島に流されたのは,俊寛僧都・丹波少将成経・平判官(へいはんがん)康頼の3人だった。清盛の娘の中宮が懐妊し,安産祈願の特赦で使いが島に赴く。…
…《平家物語》巻三〈有王〉〈僧都死去〉の登場人物。法勝寺執行俊寛僧都に仕えた侍童。鹿ヶ谷(ししがたに)事件で俊寛が流されてのち,鬼界ヶ島を訪ねてその最期をみとり,遺骨を高野山奥の院に納めて法師になった。…
…【鎌田 政明】【横山 勝三】
[歴史と伝承]
産出する硫黄で海面まで黄色くなるのでかつては黄海ヶ島,鬼界島,貴海島と呼ばれた。1177年(治承1)平氏の六波羅政権を倒す計画に失敗した俊寛,藤原成経,平康頼らが配流された島で(《愚管抄》),《平家物語》では鬼界島と書かれている。成経,康頼が大赦で帰島後,俊寛は悲嘆のなかで没した。…
…気候は亜熱帯的で,全島にガジュマル,ソテツ,アダンなどが自生し,海岸にはサンゴ礁が発達する。古くから大和朝廷と交流があり,源為朝や僧俊寛が来島したと伝えられ,俊寛のものという墓もある。また戦いに敗れた平家の一門が逃れてきたといわれ,これらにまつわる伝説,故地が多い。…
…1177年(治承1)後白河法皇の近臣が平氏打倒を企てた陰謀事件。権大納言藤原成親,僧西光(藤原師光)が中心となり,平康頼,僧俊寛,藤原成経(成親の子)らが加わった。俊寛の京都東山鹿ヶ谷の山荘で謀議をこらしたので,こう呼ばれる。…
…瘦男(やせおとこ)や蛙(かわず)は死相を表し,三日月や阿波男,怪士(あやかし)などは神性の表現に特徴がある。平太(へいた)と中将は特に武将の霊に用い,頼政や景清,俊寛など特定の人物への専用面も現れた。喝食(かつしき),童子など美貌若年の面のなかにも,蟬丸や弱法師(よろぼし),猩々(しようじよう)といった特定面ができてくる。…
…本堂の裏山は修験の行場となっており,山上には蔵王権現がまつられている。参道にある宝篋印塔は俊寛僧都の塔と伝え,俊寛の妻子が隠れたという獅子岩がそのそばにある。【藤井 学】。…
…フシ物。平氏政権転覆の謀議の罪で鬼界ヶ島に流されたのは,俊寛僧都・丹波少将成経・平判官(へいはんがん)康頼の3人だった。清盛の娘の中宮が懐妊し,安産祈願の特赦で使いが島に赴く。…
…5段。通称《俊寛》。近松門左衛門作。…
※「俊寛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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