20世紀日本人名事典 「名和又八郎」の解説 名和 又八郎ナワ マタハチロウ 明治〜昭和期の海軍大将 生年文久3年12月22日(1864年) 没年昭和3(1928)年1月12日 出生地越前国遠敷郡雲浜村(福井県) 旧姓(旧名)武久 学歴〔年〕海兵(第10期)〔明治16年〕卒,海大卒 経歴明治19年海軍少尉に任官。日清戦争では艦隊旗艦・松島の分隊長を務めた。32年海軍省副官兼海軍大臣秘書官。英国出張から帰国後、海軍省人事局第2課長となり、日露戦争中は同第1課長として人事を司った。のち出雲、厳島、生駒各艦長、呉鎮守府参謀長、教育本部長、第2艦隊司令長官、舞鶴、横須賀各鎮守府長官などを歴任。大正7年大将。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「名和又八郎」の解説 名和又八郎 没年:昭和3.1.12(1928) 生年:文久3.12.22(1864.1.30) 明治大正期の海軍軍人。父は小浜藩(福井県)藩士武久久三,養父は名和荘山,妻は海軍少将滝川具和の妹,長男武は海軍技術中将。明治12(1879)年海軍大学校入学,卒業後海上勤務を歴任,日清戦争(1894~95)では常備艦隊旗艦「松島」分隊長。32年海軍省副官兼海軍大臣秘書官を経て,「初瀬」回航員としてイギリスに出張。帰国後大佐,海軍省人事局2課長,日露戦争(1904~05)中は同1課長となる。戦争後「出雲」「厳島」「生駒」艦長を歴任し41年少将。呉鎮守府参謀長を経て第2艦隊司令官,45年中将,大正3(1914)年教育本部長となる。その後舞鶴,横須賀両鎮守府長官を経て大将。のち軍縮に反対。 (田中宏巳) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「名和又八郎」の解説 名和又八郎 なわ-またはちろう 1864*-1928 明治-大正時代の軍人。文久3年12月22日生まれ。日清(にっしん)戦争では旗艦松島の分隊長。のち出雲(いずも),生駒(いこま)などの艦長や第二艦隊司令長官,舞鶴・横須賀(よこすか)両鎮守府の司令長官を歴任。大正7年海軍大将。昭和3年1月12日死去。66歳。若狭(わかさ)(福井県)出身。海軍兵学校卒。旧姓は武久。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by