吾川山庄(読み)あがわやまのしよう

日本歴史地名大系 「吾川山庄」の解説

吾川山庄
あがわやまのしよう

上八川かみやかわ川流域の上八川郷を中心に、仁淀によど川北岸一帯の山地に展開した荘園であったらしいが、立荘の時期や経緯は不明。仁淀川上流の高岡郡別符山べふやま(現仁淀村など)や、中流の同郡久佐賀くさか別符(現日高村)などとともに、古くは高岡郡日下くさか村の小村おむら神社(現日高村)と関係のある豪族が荘官を務めていたらしい。貞和三年(一三四七)一一月一五日の日付がある小村神社の棟札銘(蠧簡集木屑)には

<資料は省略されています>

とみえ、本来別符山などとともに国衙の諸役を勤仕する地とされたようである。南北朝の動乱により武家方に侵略されたことは、暦応三年(一三四〇)一二月一九日付の堅田又三郎宛の細川定禅宛行状(古文叢)に「土佐国吾河山預所職事、為兵粮料所々預置也」とあり、北朝方の堅田氏に兵粮料所として預けられていることでもわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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