朝日日本歴史人物事典 「味方但馬」の解説
味方但馬
生年:永禄6(1563)
江戸前期,佐渡金山の著名な山師(鉱山の開発・経営者)。幼名小次郎,のち味方孫太夫家重。通称但馬は受領名の但馬守による。池田輝政に仕えた村井貞政(善左衛門)の長男。父が播磨国(兵庫県)三方に隠退して味方姓を名乗る。但馬は福島正則に仕えて関ケ原の戦の戦功で500石を得た。42歳のとき佐渡へ渡り,元和期(1615~24)に寸方樋という西洋技術を用いて,衰えていた相川最大の割間歩再生に成功,佐渡のほか摂州多田,南部,伊勢の鉱山で採掘,経営に才腕をふるい財を成した。子の家次,孫の家之も割間歩の採掘中に坑内の湧水に苦しみ,寛永14(1637)年に大坂からからくり巧者水学宗圃を呼び 水上輪(アルキメデスポンプ)の仕法を学んで国内鉱山で初めて試用するなど,3代にわたって鉱山技術の改良に業績を残した。水上輪は島内の灌漑に近代まで威力を発揮した。但馬は日蓮宗に帰依し,京都妙覚寺をはじめ佐渡のほとんどの日蓮宗寺院の伽藍の整備に助力した。京都で没し,墓は京都妙覚寺にある。<参考文献>小葉田淳『日本鉱山史の研究』,磯部欣三『佐渡金山』,田中圭一『佐渡金銀山の史的研究』
(磯部欣三・田中圭一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報