味舌下村(読み)ましたしもむら

日本歴史地名大系 「味舌下村」の解説

味舌下村
ましたしもむら

[現在地名]摂津市正雀しようじやく二―四丁目・正雀本しようじやくほん町一―二丁目・三島みしま一―三丁目・南千里丘みなみせんりおかはま町など

味舌郷五ヵ村の一で郷南端に位置。村の東でさかい川・茨木いばらき川・沢良宜さわらぎ川が安威あい川に、西で安威・神崎両河川が合流するというきわめて低湿な水害多発地。村の中央を山田やまだ川が流れ、上手は正音寺しようおんじ村。集落は山田川と茨木村(現茨木市)方面への道が交差する地域の両側に広がる。「大阪府全志」によれば当村は味舌天満宮・明善みようぜん寺を創始したという馬場当次郎尚久が、中世末期に味舌郷で開いた馬場前ばばざき村に始まるという。文禄三年(一五九四)の大田郡味舌之内下村御検地帳(久富家文書)に「味舌之内下村」とみえ、九五七石余が高付される。村高はのちに享保一二年(一七二七)幕府代官玉虫左兵衛検地の流作場二石余(「味舌下村流作場検地帳」同文書)を加えて九五九石余となる(享保二〇年摂河泉石高調)領主坪井つぼい村と同じく江戸時代を通じて織田氏であるが、流作場のみは幕府領で、文化七年(一八一〇)以降高槻藩預地であった。前掲文禄三年の検地帳によると高請百姓二五二人のうち、当村百姓は六割強の一五二人で残りは他村の耕作者という著しい入作状況を示す。村高のうち田高八八一石余・畑高四七石余・屋敷高一二石余で、田高が九割を占め、なかでも中田が多いが、当時の石盛から実質的には下田とみられ、村の低湿性がうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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