三島(読み)ミシマ

デジタル大辞泉 「三島」の意味・読み・例文・類語

みしま【三島】[地名]

静岡県東部の市。古くは伊豆国国府国分寺の所在地、江戸時代は東海道の宿場町として繁栄。三嶋大社がある。富士箱根伊豆観光の玄関口。人口11.2万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「三島」の意味・読み・例文・類語

みしま【三島】

  1. [ 1 ]
    1. [ 一 ] ( 三島大社があるところから呼ばれた ) 静岡県東部の地名。伊豆半島の基部にある。古くは伊豆国の国府・国分寺の所在地。江戸時代は東海道五十三次の箱根と沼津の間の宿場町として栄えた。北伊豆の各温泉地への玄関口。昭和一六年(一九四一)市制。
    2. [ 二 ] 伊予国三島(愛媛県四国中央市)のあたりをさすか。
      1. [初出の実例]「伊予国のまへなるとまりにて、〈略〉誰とか申ととひ申給へば、この浦のみしまにはべるおきななりとの給に」(出典:大鏡(12C前)二)
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙みしまで(三島手)」の略。
    1. [初出の実例]「井戸・三嶋・粉引・熊川などの茶碗は、縄からげにして幾箱の内と書付し」(出典:浮世草子・好色敗毒散(1703)四)

さん‐とう‥タウ【三島】

  1. [ 一 ]さんしんざん(三神山)[ 一 ]〔神仙伝〕
  2. [ 二 ] 新潟県の中央部の郡。信濃川の左岸で、出雲崎、寺泊等の町がある。日本海に面する。中世、古志郡が信濃川を境として東西に分割されて成立したもので、西古志郡とも称し、また、山東郡とも書かれた。古代の三島(みしま)郡は、現在の刈羽郡を含む地方で、今の三島(さんとう)郡の南方にあたる。

みしま【三島】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「三島」の解説

三島
みしま

現三嶋大社一帯の地名。古代に同社が所在した三島郷(和名抄)は伊豆国賀茂かも郡に属し、伊豆諸島に比定される。平安時代中期以降に同社が賀茂郡より当地に移った後、同社にちなんで三島とよばれるようになったらしく、それ以前は伊豆国府の所在地を意味する国府こうとよばれたと思われる。東海道の宿としても知られた。

〔三島の地名〕

弘安五年(一二八二)七月一六日に片瀬かたせ(現神奈川県藤沢市)を発って西上した一遍が「三嶋」に着いた日、日中より日没まで紫雲がたなびき時衆七、八人が一度に往生したという(一遍上人絵伝)。永仁元年(一二九三)七月二二日鎌倉鶴岡八幡宮寺別当頼助は三島に赴くため鎌倉を出立し、八月三日当地より戻っている(頼助僧正日記)。正安二年(一三〇〇)一一月三日京都東福寺の開山円爾の開山塔常楽塔の偈がつくられた際には、三島の養麟が漢詩をよせている(「常楽拝塔偈」東福寺霊雲院所蔵集古録)。一三世紀末には三嶋大社付近を三島とよぶようになっていたと考えられるが、国府とよばれることが多かった(→伊豆国府・伊豆府中

〔室町前期〕

康暦元年(一三七九)四月三〇日、幕府からの土岐頼康討伐命令に乗じて将軍職を奪おうとした鎌倉公方足利氏満は、関東管領上杉憲春の諫死によって望みを諦め当地に赴き、土岐氏討伐のため発向しながら当地に滞留していた上杉道合(憲方)を関東管領に任じている(「鎌倉大草紙」「鎌倉大日記裏書」など)。応永一七年(一四一〇)七月一五日には「ミしま」の住人真野師実が紀伊国熊野本宮に願文を納めており(「真野師実願文」熊野本宮大社文書)、当地付近に熊野信仰が及んでいる。

応永二三年一〇月上杉禅秀の乱が勃発すると鎌倉公方足利持氏は鎌倉を脱出し、箱根はこね山を経て七日夜当地に到着、さらに箱根(現神奈川県箱根町箱根神社)別当証実の案内で瀬名せな(現静岡市)へ逃れたが(鎌倉大日記裏書)、持氏が当地に打出して合戦し、敗れて切腹したとの誤報も京都に届けられている(「看聞日記」同月一六日条)。同年一二月二五日、幕府の援護を受けた持氏は駿河守護今川氏の軍勢を中心にして入江いりえ(現清水市)での合戦で禅秀の軍勢を破って当地に陣を進め、足柄あしがら・箱根山越の二手に分れて禅秀方を追撃、勝利を収めた(鎌倉大草紙)。禅秀の乱に勝利した持氏は徐々に反幕府的態度を明らかにしたため、同二九年将軍足利義持は庇護していた上杉憲顕(禅秀の子)・同教朝らに暇をあたえ、憲顕らは関東に下り当地もしくは駿河国沼津で放火乱妨、さらに相模国で在々所々の代官・御家人を殺害して京都に帰ったという(喜連川判鑑)


三島
みしま

薩摩半島の南方に位置する硫黄いおう島・たけ島・くろ島からなる。河辺郡のうち。近世初期、三島を管轄する地頭が配されており、一つの郷と考えることもできよう。中世は十二じゆうに島に含まれた。応永年間(一三九四―一四二八)三島は守護島津久豊により種子島氏に与えられた(種子島家譜)。文禄五年(一五九六)に移地頭(居地頭)として新納大蔵が硫黄島に配されたという(三国名勝図会)。近世中期以降は鹿児島藩船奉行の支配下に置かれた。地頭・船奉行の下には任期一年で硫黄島在番(見聞役)が任命され、三島を管轄した。元禄三年(一六九〇)の在番は伊集院賢吉、明和(一七六四―七二)以降の在番として相良朴助・市来杢左衛門・平瀬太兵衛・平瀬喜三太・野村甚八・草道七右衛門・有馬助之進が知られる。別に鹿児島藩士中から任命され、硫黄島に駐在する横目(任期一年、一名、のちに二名)がいて、三島の治安維持にあたった。

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改訂新版 世界大百科事典 「三島」の意味・わかりやすい解説

三島[市] (みしま)

静岡県東部の市。1941年市制。人口11万1838(2010)。北東部は箱根山の西麓,南部は田方平野に位置する。古代には伊豆の国府が置かれ,三嶋大社の門前町として,近世には箱根山を背後に東海道の中でも重要な宿場町として発達した。1889年に東海道本線が三島をそれ,御殿場経由で建設されたために一時的にさびれるが,1934年の丹那トンネル開通による路線変更,三島駅開設によりにぎわいを取り戻した。東海道新幹線が通り,三島駅を起点に伊豆箱根鉄道が修善寺まで通じるなど伊豆方面への玄関口の一つである。工業は製造品出荷額が3162億円(1995)で,電機と一般機械・ゴム製品が多い。豊富な地下水を利用して,1957年に隣の長泉町にまたがって東レが工場進出をしたのをはじめ,森永製菓,東京電気,立石電機,横浜ゴム,電業社などの大企業工場がある。農業は平野部の施設園芸,箱根山西麓のニンジン,ダイコンなどの根菜類の栽培が盛んである。荘厳な社殿の三嶋大社をはじめ,湧水池,自然林が調和し,東海の名園といわれる楽寿園などがある。
執筆者:

746年(天平18)の平城京木簡や《和名抄》に伊豆国賀茂郡三島郷とあるが,比定地は未詳。1180年(治承4)石橋山の戦で敗れた加藤光員兄弟が逃げまどい,〈今夜亥の刻,伊豆の国府の祓土(はらいど)に到著〉したと《吾妻鏡》にみえる。祓土は現在も三島に残る地名である。《十六夜日記》などの紀行文には三島を国府,府中と記している。三島が国府所在地であったためである。室町期になると三島明神の在所にちなんで三島と呼ばれるようになった。世阿弥の《春栄》にも〈名にのみ聞きし伊豆の国府,三島の里に着きにけり〉というせりふがある。中世の三島は伊豆国田方郡のうちに属したが,近世は君沢郡三島町となる。宿駅の制が完備するにつれ,東海道の重要な宿場町となる。文禄年間(1592-96)大中,小中,窪(久保),伝馬の4町に始まり,1688年(元禄1)4月の〈改〉によると,家数698軒(うち借屋借地172,寺門27,持家499),人数4370人(うち男2182,女2086,坊主84,山伏10,座頭ごぜ8)。町名別に家数をみると,新町39,長谷町33,伝馬町48,久保町39,大中島町40,六反田町47,新宿町66,茅町47,蓮行寺町25,柴(芝)町41,北金谷町13,南金谷町25,市ヶ原町37,二日町39,竹林寺町5,田町44,その他15(《伊豆日記》)。寺院は26寺,新町より千貫樋に至る町並みには茶屋,旅籠,本陣が軒をならべている。当地は三島代官所の所在地でもあった。1590年(天正18)代官頭伊奈忠次によって伊豆国総検地が実施されたときに設けられたといわれている。しかし代官頭の存在によって三島代官所が設けられていた確証とすることはできない。代官所の設置が明確になるのは17世紀中葉~後半の伊奈兵蔵,同兵右衛門の時代である。このとき,三島郡代玉井十郎兵衛ほか70余名が組織され,伊豆国237村,村高7万石余を支配した。1759年(宝暦9)三島代官所は廃止され,韮山代官所の支配となる。当地は三嶋大社の門前に市がたち,市ヶ原,二日町の地名がある。また三島暦でも知られる。
執筆者:


三島 (みしま)

李朝時代前期に朝鮮半島で焼造された陶磁器の一種。高麗時代の象嵌青磁高麗青磁)の流れを汲むもので,日本では一般に三島,刷毛目とよんでいる。その名の起源には諸説があって,静岡県の三嶋大社の社家で出した三島暦に似ているためともいわれるが明らかでない。利休の茶会に三島茶碗を使った記録があるから,桃山時代以降の呼び名であろう。近年韓国では,この一群を〈粉粧灰青沙器〉,略して粉青沙器とよぶ。灰色の素地に印花文を施し,これに純白の白土を塗ってさまざまの意匠を作り出し,透明釉をかけて焼き上げたものが基本で,白化粧の上に鉄絵具で文様を描く絵三島,白化粧を搔き落して文様をあらわした彫三島などがある。象嵌三島とよばれるていねいな作りのものは,高麗象嵌青磁の末期のものと区別のつかないものがある。そのため,その始まりを高麗末期とする説もある。李朝は,国初から全国の窯を整備し,《世宗実録地理志》には,磁器所136ヵ所,陶器所186ヵ所が記され,三島,刷毛目などは各地で生産されていたことがわかる。忠清南道の鶏竜山窯はその精緻な技法で名高い。最盛期は15世紀といわれ,16世紀になると,白土で表面を覆ったものが多くなり,16世紀末の文禄・慶長の役以後になると,半島南部の三島,刷毛目を焼いた窯の多くは,白磁窯に転じていった。
執筆者:


三島[村] (みしま)

鹿児島県南部,鹿児島郡の村。人口418(2010)。薩摩半島南方40~50kmの海上にある口之三島(くちのみしま)(竹島,硫黄島,黒島)からなる。いずれも火山島で,なかでも硫黄島は常時噴煙を上げている。中世以降,硫黄島(鬼界ヶ島)への俊寛など多くの流人が流された地で,俊寛堂など史跡が多い。かつては上三島と呼ばれ,明治中期から現十島(としま)村域の下七島とともに大島郡十島(じつとう)村を構成していた。1946年下七島がアメリカ軍に接収されたため,上三島だけで十島村を構成した。その後,52年復帰した下七島で十島(としま)村を,上三島で三島(みしま)村を構成することとなり,73年には両村とも鹿児島郡の所属となった。村役場は鹿児島市に置かれている。かつて活況を呈していた硫黄島の硫黄鉱山が1964年閉山したことなどで,人口は減少の一途をたどっている。2013年5月現在,竹島72人,硫黄島112人,黒島161人で計345人。1965年から村全体で483人減少している。産業は畜産,沿岸漁業を中心としている。鹿児島港から各島へ村営の定期船が,また鹿児島,枕崎両空港から硫黄島へ不定期の航空便が通じ,釣りなどの観光客が増加している。
執筆者:


三島[町] (みしま)

福島県西部,大沼郡の町。人口1926(2010)。只見川中流域に位置し,山林が町域の大半を占める。中心の宮下は只見川南岸の河岸段丘上にあり,近世は沼田街道の宿場町であった。1931年には国鉄会津線(現,JR只見線)が宮下まで通じ,宮下発電所の建設も開始され,只見川電源開発の拠点として発達した。葉タバコの栽培が盛んで,古くから会津桐の中心産地として知られ,たんす,桐下駄など桐材加工も行われる。豪雪地で県内でも有数の過疎地であるが,1974年から全国に先がけて大都市住民を対象にした〈ふるさと運動〉を実施し,自然を生かした観光地づくりを行っている。宮下に町名の由来となった三島神社が鎮座する。
執筆者:


三島(新潟) (みしま)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三島」の意味・わかりやすい解説

三島(市)
みしま

静岡県東部、伊豆半島の基部に位置する市。1941年(昭和16)市制施行。1954年(昭和29)中郷村を編入。市域の北東部は箱根連山の西側斜面にあたり、西部は黄瀬(きせ)川の扇状地で、市街地が発達、南は田方(たがた)平野に連なる。富士山噴火で流れ出た溶岩流の最末端にあたり、溶岩流の間を流れ出てくる富士山の伏流水が市内の随所に泉や池をつくり、「東海の水の都」とよばれる。JR東海道本線・東海道新幹線、伊豆箱根鉄道が通じ、国道1号が東西に、伊豆縦貫自動車道、国道136号が南北に通じる。古代、伊豆国国府の所在地として地方行政の中心地で、初め国府と称したが、三嶋大社が南伊豆白浜から移ってからは三島とよばれるようになった。中・近世は三嶋大社の門前町、また東海道の宿場町として繁栄した。1889年(明治22)鉄道敷設に反対したため、東海道本線が御殿場(ごてんば)を通るようになると一時さびれたが、1934年丹那(たんな)トンネルの開通で三島駅ができるとふたたび活況を取り戻した。東海道新幹線三島駅の設置で名実ともに富士箱根伊豆国立公園の玄関口となった。近年は火山灰土壌を生かしてハクサイ・ダイコンなどの栽培や、施設園芸、養豚が盛ん。また化学繊維、電気機器、ゴム、製薬などの工場がある。県営団地をはじめ、宅地開発も盛んとなっている。国史跡に錦田一里塚(にしきだいちりづか)(箱根旧街道)、山中城跡、伊豆国分寺塔跡があり、国天然記念物・名勝に楽寿園がある。三嶋大社には梅蒔絵(うめまきえ)手箱(国宝)をはじめ国重要文化財が多く、キンモクセイは国の天然記念物。三島市郷土資料館、佐野美術館、日本大学(国際関係学部等)、国立遺伝学研究所、県総合健康センターなどがあり、文教の都市でもある。面積62.02平方キロメートル、人口10万7783(2020)。

[川崎文昭]

『『三島市誌』全3冊(1958~1959・三島市)』『『三島市誌 本文編、資料編』全3冊(1987~1992・三島市)』



三島(陶芸)
みしま

朝鮮半島李朝(りちょう)時代の前期を代表する陶芸。日本では一般に三島手(で)、刷毛目(はけめ)ともいう。名称の由来は、その文様が三島暦(江戸時代に静岡の三嶋大社が発行した暦)の文様に似ていることによるとするのが通説で、暦手(こよみで)ともよぶ。近年韓国では粉青沙器(ふんせいしゃき)と称している。

 高麗(こうらい)時代の象眼(ぞうがん)青磁の技法が崩れて衰退していく過程で生まれ、一作風として定着した。作種は技法上から、彫(ほり)三島、釘彫(くぎぼり)三島、刷毛目、絵三島などに分けられる。三島は細やかな象眼文を主体とするが、灰色の素地(きじ)に印花文(いんかもん)などを施し、白土で化粧がけしたのち、透明釉(ゆう)をかけたものが基本で、大柄の文様の周りを掻(か)き落とし、ここに白土を埋めたものが彫三島である。また釘で文様を粗く線彫りして白土を象眼したのが釘彫三島で、白化粧の上に鉄絵が加わると絵三島となる。文様上の特色から、花(はな)三島、檜垣(ひがき)三島、角(かく)三島、渦三島などの称があり、銘文の文字から礼賓(れいひん)三島とよばれるものもある。窯は半島全体に分布しているが、とくに忠清南道公州市の鶏竜山窯(けいりゅうざんよう)が名高く、15世紀が全盛期で、16世紀までは焼成されたが、壬辰倭乱(じんしんわらん)(文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役)を境に17世紀にはこの系譜はとだえ、半島南部の窯の多くは白磁窯に転じていった。なお、室町末期に日本でわび茶の茶碗(ちゃわん)として半島の粗製碗を珍重し始めたが、まず三島が注目されて高い声価を得た。伝世の「上田暦手(うえだこよみで)」「三島桶(おけ)」「大三島」「二徳三島」などの名品は古(こ)三島ともよばれ、また江戸初期に釜山(ふざん)窯などで日本からの注文で焼かれた三島茶碗を御本(ごほん)三島という。

[矢部良明]

『田中豊太郎著『陶磁大系30 三島』(1976・平凡社)』『『世界陶磁全集19 李朝』(1980・小学館)』


三島(村)
みしま

鹿児島県鹿児島郡にある村。薩摩(さつま)半島の南方海上約50キロメートルにあり、竹島、硫黄島(いおうじま)、黒島の三つの火山性の島々からなる。第二次世界大戦後、北緯30度以南の島々がアメリカ軍政下に置かれたため、十島村(じっとうむら)から分離し、1952年(昭和27)上三島(かみさんとう)で三島村として発足した。村役場は鹿児島市にあり、硫黄島に三島開発総合センターがある。鹿児島市と三島村を結ぶ村営定期船がある。畜産が基幹産業で、傾斜草地を利用した肉用牛の飼育のほか、シイタケ栽培やタケノコの加工、ツバキ油の生産などが盛んである。鹿ヶ谷(ししがたに)事件の俊寛(しゅんかん)や平家の落人(おちゅうど)伝説にまつわる史跡が多く、雄大な自然とともに重要な観光資源となっている。面積31.39平方キロメートル、人口405(2020)。

[平岡昭利]

『松永守道著『三島村秘史』(1972・三島村)』



三島(旧町名)
みしま

新潟県中央部、三島郡(さんとうぐん)にあった旧町名(三島町(まち))。現在は長岡(ながおか)市の中央部を占める一区域。1955年(昭和30)脇野(わきの)町と大津(おおつ)村の一部が合併して三島町と改称。1956年三島町は日吉村の一部を編入。2005年(平成17)長岡市に編入。国道352号、403号が通じる。小木城山の東麓(とうろく)を流れる黒川流域は中越米の米どころをなし、長岡から出雲崎(いずもざき)に出るバス路線の要衝にあたる。旧町域の中心地区脇野は、近世天領の代官所の置かれた地で、古くから鋸(のこぎり)、鉋(かんな)、のみなどの打刃物(うちはもの)の鍛冶町(かじまち)として知られた。いまも会津鍛冶の伝統を継ぐ鋸がつくられる。良質の水に恵まれ、清酒、製麺(せいめん)、みそなどの食品工業も盛ん。西境の小木城址(おぎじょうし)は展望が優れる。

[山崎久雄]

『『三島町史』2巻(1984・三島町)』


三島(町)
みしま

福島県西部、大沼郡の町。1955年(昭和30)宮下(みやした)、西片(にしかた)の2村が合併して三島村となり、1961年町制施行。宮下、三島の地名は三島神社にちなむ。町域の大部分は山地で、北部を只見川(ただみがわ)が北東方向へ流れ、川沿いをJR只見線、国道252号、400号が走る。中心地区の宮下は只見川とその支流大谷川の合流点付近にある。農林業が主で、キリ・スギの植林と製材、稲作、畜産やソバ栽培などが行われる。積雪が1~2メートルに達し、特別豪雪地帯に指定されており、豊富な水資源を利用して只見川に宮下ダムがつくられ、宮下発電所の最大出力は9万キロワット。沼沢の揚水(ようすい)発電にも利用されている。面積90.81平方キロメートル、人口1452(2020)。

[安田初雄]

『『三島町史』(1968・三島町)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三島」の意味・わかりやすい解説

三島
みしま

新潟県中部,西山丘陵から新潟平野南西部にある長岡市北部の旧町域。 1955年脇野町と大津村の一部が合体して三島町が発足。 1956年日吉村の一部を編入。 2005年長岡市に編入。中心集落の脇野町を中心にのこぎりなどの金物を産し,醸造業も行なわれる。農業は米作中心。 1960年代には天然ガスが掘られ,町営で都市ガスを供給していたが,現在は行なわれていない。古刹の寛益寺,国の重要文化財である親鸞上人坐像を所蔵する西照寺がある。

三島
みしま

陶磁用語。朝鮮,李朝時代初期から,忠清南道の鶏竜山窯をはじめ各地で焼かれた陶磁器の,日本の茶人による呼称。ねずみ色がかった素地に,菊花や円珠などの小紋や縦の波形の文様などを線がき,あるいは型押しした部分に,白泥を充填して白い象眼文をつくって焼成しているのが特徴。名称の由来は三嶋大社 (静岡県) 版行の暦の文様に似ていたためといわれ,「暦手」ともいう。日本へは安土桃山時代に入り,対馬,八代,薩摩,萩,瀬戸などで盛んに模作された。

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デジタル大辞泉プラス 「三島」の解説

三島〔佐賀県〕

佐賀県東松浦郡玄海町、仮屋湾にある無人島。島内は「三島公園」として整備され、温泉施設やゲートボール場などがある。

三島〔長崎県〕

長崎県西海市西彼町、大村湾内にある無人島。

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事典・日本の観光資源 「三島」の解説

三島

(静岡県三島市)
東海道五十三次」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の三島の言及

【口之三島】より

…第2次大戦前は下七島(現在の吐噶喇(とから)列島)とともに大島郡十島(じつとう)村を構成していたが,戦後北緯30゜以南がアメリカ軍政下に入ったため,以北の3島で十島村を構成,役場を鹿児島市に置いた。1952年復帰した下七島で十島(としま)村を,また3島は別に三島(みしま)村を構成,さらに73年両村とも鹿児島郡に移属した。役場が鹿児島市にあり,議会も同市で開かれる。…

※「三島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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