和島 誠一
ワジマ セイイチ
昭和期の考古学者 岡山大学教授。
- 生年
- 明治42(1909)年3月10日
- 没年
- 昭和46(1971)年10月29日
- 出生地
- 東京都中野区江原町
- 別名
- 筆名=三沢 章
- 学歴〔年〕
- 早稲田大学文学部史学科〔昭和9年〕中退,東京帝国大学理学部人類学科選科〔昭和16年〕修了
- 経歴
- 昭和8年早大在学中、治安維持法により検挙され、退学。10年唯物論研究会に参加、渡部義通らとの日本古代史共同研究で考古学の研究を始めた。11、12年三沢章の筆名で論文発表。17年東京帝大理学部嘱託となり中国各地に研究出張。戦後23〜29年東洋大教授、24〜41年資源科学研究所研究員、41年岡山大法文学部史学科考古学教授。また横浜市大、東京女子大、都立大などの講師も務めた。44年日本学術会議会員。埋蔵文化財保護対策委員会委員長として弥生、古墳時代の遺跡調査を行い、埋蔵文化財白書の作成を主宰。著書に「日本古代史の基礎問題」「原始聚落の構成」「大昔の人の生活」「日本考古学の発達と科学的精神」「横浜市史」(第1巻)、「日本歴史教程」(共著)などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
和島誠一 わじま-せいいち
1909-1971 昭和時代の考古学者。
明治42年3月10日生まれ。郷誠之助(ごう-せいのすけ)の長男。東洋大教授,資源科学研究所研究員をへて,昭和41年岡山大教授。史的唯物論にもとづき,古代集落や古代農耕社会の生産技術などを研究。埋蔵文化財保護運動にも尽力。昭和46年10月29日死去。62歳。東京出身。東京帝大選科修了。筆名は三沢章。著作集に「日本考古学の発達と科学的精神」。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
和島 誠一 (わじま せいいち)
生年月日:1909年3月10日
昭和時代の考古学者。埋蔵文化財保護対策委員会委員長
1971年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の和島誠一の言及
【荆村遺跡】より
…中国山西省万泉県荆村瓦渣斜の黄土台地にある新石器時代の遺跡。1931年に董光忠が,42年に和島誠一が発掘した。3層にわたって重なり合う竪穴の多くは平面が円形をなし,底部が平らで広く口部のすぼまった袋状の貯蔵穴である。…
【考古学】より
…弥生土器の存在は19世紀から知られていたが,弥生時代の性格が明らかとなり,縄文時代,弥生時代,古墳時代という現在使われている時代区分の原型ができ上がったのは,30年代のことである。梅原は20年代に[邪馬台国論争]に参加,その後,[森本六爾]は弥生時代を生業論の立場から説明,また,和島誠一は唯物史観の立場から日本考古学の総括を試みるなど,考古学を歴史学に高めようとする努力も見られたが,それを直接,日本国家成立史に連結することは当時の思想統制の下では困難であったので,歴史学の一部門としての日本考古学は十分に開花するにいたらなかった。第2次世界大戦後,日本の考古学はようやく皇国史観の抑圧から解放され,自由な活動を開始する。…
※「和島誠一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」