日本歴史地名大系 「和歌山城跡」の解説 和歌山城跡わかやまじようあと 和歌山県:和歌山市和歌山城下和歌山城跡[現在地名]和歌山市一番丁紀ノ川の東南、和歌川西岸の吹上(ふきあげ)砂丘北端部にある岡(おか)山に建設された平山城で、国指定史跡。和歌山城の名は城のある岡山がなまったとも、古代よりの景勝地和歌浦(わかのうら)と岡山を合せたとも伝える。岡山は天正一三年(一五八五)の「紀州御発向記」に「彼岡国府中而平地独秀城郭也、南和歌浦、西吹上浜、従東紀川北流入紀港、麓林深諸木交条、誠万景一覧之境致也」とあるように、城郭の最適地である。天正一三年三月二四日からの豊臣秀吉の雑賀攻めは、四月二二日の太田(おおた)城落城で終わるが、岡山に築城を決めたのはそのさなかで、四月一三日の羽柴秀吉書状(前田家蔵)に「爰元ニハ美濃守(秀長)可残置与存、普請申付候」とあり、普請を申しつけている。同年四月二六日付次右衛門尉宗俊書状(中家文書)にも「秀吉様昨日廿五日ニ御馬納候、小一郎殿ニ一万人数ヲ被相副、岡山之普請被仰付候」とあり、二五日に帰還する秀吉が、小一郎(秀長)に一万人を添えて普請を命じていたことがわかる。五月八日付羽柴秀吉朱印状写(高山公実録)によると、秀吉が秀長に「又、普請事いか程出来候哉」とたずねているから、五月八日以前には普請が始まっていたことになる。この城には秀長の家臣、桑山重晴が城代として入った。当時の城郭についての史料はないが、現存の石塁によると、浅野氏時代以降には使われない地元産の緑泥片岩を使用し、穴太衆による野面積みであるのが特徴で、石の採取地は現岡公園辺り、雑賀崎(さいかざき)および双子(ふたご)島の海岸、海草郡下津(しもつ)町大崎(おおさき)、有田市の初島(はつしま)の海岸と沖(おき)ノ島の海岸が知られている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by