日本歴史地名大系 「吹上」の解説
吹上
ふきあげ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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埼玉県中北部、北足立郡(きたあだちぐん)にあった旧町名(吹上町(まち))。現在は鴻巣市(こうのすし)の北西部を占める地域。旧吹上町は1934年(昭和9)町制施行。1954年小谷(こや)村、1955年下忍(しもおし)村と合併。2005年(平成17)鴻巣市へ編入。旧町域はJR高崎線と国道17号が通じる。荒川の沖積低地にあり、市街地は自然堤防上に位置する。付近は荒川扇状地の末端にあたり、かつては至る所で掘抜き井戸から自噴水がわき出ていた。吹上の地名もこれに由来するとの説がある。江戸初期まで荒川本流が流れていたが、1629年(寛永6)伊奈忠治(いなただはる)により、現在の熊谷(くまがや)市久下(くげ)付近で入間(いるま)川支流和田・吉野川への付け替え工事が行われ、旧河道は元荒川となった。江戸時代は中山道(なかせんどう)と日光裏街道が交わる宿場町であったが、現在は富士電機機器制御(旧、富士電機)をはじめいくつかの大工場があり、交通の便もよいので、住宅の増加が著しい。1590年(天正18)に石田三成が忍城を水攻めにしたときの遺構「石田堤」があり、1999年(平成11)史跡公園として整備された。
[中山正民]
『『吹上町史』(1980・吹上町)』
鹿児島県西部、日置郡(ひおきぐん)にあった旧町名(吹上町(ちょう))。現在は日置市の南部を占める。旧吹上町は1955年(昭和30)伊作(いざく)町と永吉(ながよし)村が合併して成立。町名は吹上浜砂丘にちなむ。2005年(平成17)伊集院(いじゅういん)町、東市来(ひがしいちき)町、日吉(ひよし)町と合併、市制施行して日置市となった。旧町域は薩摩半島(さつまはんとう)西岸に位置し、国道270号と九州自然歩道が南北に通じる。伊作は戦国時代三州を統一した島津忠良(ただよし)(日新斎(じっしんさい))など伊作島津家の城下で、亀丸城(かめまるじょう)跡が残る。昔は沿岸漁業が盛んであったが、現在は野菜、タバコのほかブロイラーなどの畜産が主産業。砂丘と背後の薩摩湖(さつまこ)など小堰止(せきとめ)湖は吹上浜県立自然公園になっている。
[白石太良]
『『吹上郷土史』全3巻(1966~1974・吹上町)』▽『『吹上町郷土史 現代編』(1979・吹上町)』
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…宮城県玉造郡鳴子町に属し,荒雄岳(984m)の西・南麓に,荒雄川に臨んで散在する轟(とどろき),神滝(みたき),宮沢,吹上,荒湯などの諸温泉の総称。轟温泉(食塩泉,80℃)の古湯は元和年間(1615‐24)ころ,新湯はその後に発見された。…
…鹿児島県薩摩半島の西岸,東シナ海に面する海岸。串木野市から加世田市にわたり,南北47km,最大幅2.8km,最高点47.2m。海岸に注ぐ中小河川が後背地の山地やシラス台地を浸食して土砂を運びこみ,これが北西の季節風によって吹き上げられ,堆積して砂丘を形成する。1854年(安政1)金峰(きんぽう)町の宮内善左衛門によって植えられたのが始まりとされる砂防林の松林が茂り,白砂青松のみごとな砂丘海岸となっている。…
…しかし工事はなお断続しながら続き,家康,秀忠,家光の3代を経て36年(寛永13)にようやく完成をみた。 内濠で囲まれた城内は,本丸,西丸,二丸,三丸,北丸,吹上の各区画からなる。そのうち本丸,西丸は最重要部で,本丸は将軍が起居し幕府の政務が行われる場所,西丸は大御所あるいは将軍世子の住む場所であった。…
※「吹上」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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