和田惟政(読み)わだこれまさ

改訂新版 世界大百科事典 「和田惟政」の意味・わかりやすい解説

和田惟政 (わだこれまさ)
生没年:1530-71(享禄3-元亀2)

戦国末期の武将近江甲賀の地侍の出身。1565年(永禄8)足利義昭が奈良から逃亡の途次,彼の居館に庇護され,以後義昭御供衆(近習)として随身。官途は伊賀守。所伝では義輝にも仕えたというが確実な根拠はない。68年織田信長に擁せられて義昭が入京を果たすと,信長から高槻城主に任ぜられ,摂津島上,島下2郡の支配を管轄する守護となり,同時に明智光秀,木下(豊臣)秀吉らと信長の京都代官を兼帯した。《耶蘇会士日本通信》が彼を都の総督とするのは誇張である。彼自身は禅宗を信じたが,キリシタン保護し,69年には高山ダリヨ(右近の父)の紹介で京都から堺へ追放されていたL.フロイスを知り,信長に上申してフロイス帰京を周旋した。イエズス会では彼をキリシタンの保護者であり父であったと称賛している。71年8月,摂津豊島郡の大名池田知正と同国郡山に戦って敗死し,畿内のキリシタンは一時的に打撃を受けた。
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朝日日本歴史人物事典 「和田惟政」の解説

和田惟政

没年:元亀2.8.28(1571.9.17)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。伊賀守。法名宗意。宗立の子。はじめ将軍足利義輝に仕え,義輝滅亡後はその弟義昭を庇護して臣となった。織田信長にも重用され,永禄11(1568)年,摂津高槻城(大阪府高槻市)城主。同年10月,信長の命で細川(長岡)藤孝,佐久間信盛と共に,松永久秀を助けて大和の諸城を攻めた。義昭に伊丹忠親,池田勝正と和するように求められ,摂津3守護のひとりとなる。翌年1月,三好三人衆が京都本圀寺在陣中の義昭を攻撃すると,これを撃退。元亀2(1571)年8月,池田知正と摂津郡山(茨木市)に戦って討死した。葬地は近江安土の浄厳寺。キリスト教に帰依し,近畿地方での有力な保護者であったという。

(森田恭二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「和田惟政」の解説

和田惟政 わだ-これまさ

1530-1571 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)3年生まれ。足利義昭をたて幕府再興のため織田信長とむすび,摂津高槻城主となる。キリシタンの保護につとめ,信長に宣教師フロイスを紹介する。池田知正とたたかい,元亀(げんき)2年8月28日討ち死に。42歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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