日本歴史地名大系 「喜連村」の解説 喜連村きれむら 大阪府:大阪市平野区喜連村[現在地名]平野区喜連一―七丁目・喜連西(きれにし)一―六丁目・喜連東(きれひがし)一―五丁目、東住吉区中野(なかの)三―四丁目平野郷(ひらのごう)町の南に位置し、摂津国住吉郡に属する。もと杭全(くまた)郷内にあって喜連村とよばれていたが、元和六年(一六二〇)東喜連(ひがしきれ)・中喜連(なかきれ)・西喜連の三村に分れたといい、明治五年(一八七二)合併して再び喜連村となった(大阪府全志)。中央部を南北に中高野街道が通り、東端を走る大坂道で河内国丹北郡出戸(でと)村と境する。古代には河内国伎人(くれひと)郷(「万葉集」巻二〇)の地とされる(摂津国住吉郡の→伎人郷)。また、南村境の近世の摂河国境を住吉津から東進する磯歯津(しはつ)道が通ったといわれ、「日本書紀」雄略天皇一四年正月条に「呉の客の道を為りて、磯歯津路に通す、呉坂(くれさか)と名く」とある呉坂は、住吉から喜連に至る途中の坂という(古事記伝)。元徳二年(一三三〇)一二月一六日の堀江秀清文案(田代文書)の悪党交名のうちに「輔房基宗伯父 河内国キレノ住人」とみえ、この頃にも河内国と認識されていたと思われる。「西琳寺流記」によると、西琳(さいりん)寺(現羽曳野市)護法堂の中尊釈迦は「摂州喜連橋本寺」本尊で、応安六年(一三七三)同堂に安置されたという。中世には高屋(たかや)城(現羽曳野市)の属城喜連城があった。天文初年細川氏綱がここを居城とし、玉井源秀が氏綱を補佐した(摂津志)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報