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嘆きの壁事件 なげきのかべじけん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

嘆きの壁事件
なげきのかべじけん

1929年に発生したユダヤ教徒とイスラム教徒の衝突事件。同年8月 15日,シオニストの青年たちが嘆きの壁の前でシオニストの旗を振って,「ハ・ティクバ」 (現イスラエル国歌) を歌ったりしたため,イスラム教徒の感情を極度に刺激した。このため,シオニストがイスラム教の聖地を破壊しようとしているとの流言が飛んで,パレスチナ全土にわたってユダヤ人入植者に対するアラブ人の襲撃が起き,約 10日間にわたって混乱が続いた。イギリス政府は事件後調査団を派遣。その報告によれば,この衝突は,アラブがユダヤ人のパレスチナ入植を,彼らの将来の独立のみならず,現在の生活を脅かすものとしてみるようになった,という事実を示している。

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世界大百科事典 第2版の解説

なげきのかべじけん【嘆きの壁事件】

1929年に起こった〈嘆きの壁〉をめぐるユダヤ人とパレスティナ・アラブとの紛争。ユダヤ教徒にとって,紀元70年にローマ軍によって破壊されたソロモン神殿の再建は最重要な課題であった。その神殿の遺構がエルサレムの〈嘆きの壁〉で,それは離散したユダヤ人の〈約束の地〉イスラエルのシンボルとなった。しかし同時にこの壁は,イスラム教徒にとってもアクサー・モスクと岩のドームを含む聖域〈ハラム・アッシャリーフ〉の西の壁にあたっている。

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世界大百科事典内の嘆きの壁事件の言及

【パレスティナ問題】より

…これに対して,たちまち1920年代初めから現地アラブ住民の抵抗が始まったとはいえ,初期においては土地代金の入手で潤うアラブ地主層はイギリス当局に懐柔され,また民衆にとってもシオニズムの意図やヨーロッパの反ユダヤ主義の強要の意味を見抜くことは容易でなかった(図1)。 エルサレム問題(聖地問題)の最初の爆発ともいうべき29年の嘆きの壁事件,さらに30年代半ばの植民者の激増とイシューブの独自の経済体制の成立とに伴うパレスティナ社会の激変,そこでアラブ住民を土地と仕事から切り離すシオニストの強硬なアラブ駆逐運動に反発して起きた36‐39年のアラブ反乱などを通じて,パレスティナ人の大衆運動は,エルサレムのムフティー,アミーン・アルフサイニーの指導下で,しばしばジハード論的宗教抗争の方向に誘導された。37年のピール報告から47年の国際連合のパレスティナ分割決議(ユダヤ人国家,アラブ国家,国際化エルサレムへの)に至る諸計画が国際政治の中で論議されていたとき,36年に発揮されたようなパレスティナのアラブの政治的・軍事的抵抗力は,弾圧によってすでに根こそぎ破壊されており,国際社会もパレスティナ人の自決権に顧慮を払わなかった。…

※「嘆きの壁事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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