改訂新版 世界大百科事典 「聖地問題」の意味・わかりやすい解説
聖地問題 (せいちもんだい)
宗教的聖地にかかわる一般的問題ではなく,通常,もっぱらパレスティナにおけるユダヤ教,キリスト教,イスラム3宗教の聖地をめぐる国際的係争問題のみを指して用いられる。これに関して国際連合が作成した聖地一覧表は図の通り。そのうち,(13),(14),(15),(11)はベツレヘムにあるが,他はすべてエルサレムにあり,したがってエルサレム問題(同市の組織と地位,同市および周辺の聖地の管理,世界の信徒たちの聖地アクセス権などをめぐる問題)が聖地問題に占める比重は圧倒的に大きい。
聖地問題の背景には,中世の十字軍から近代の東方問題にいたるヨーロッパの干渉の歴史があるが,ことに19世紀の東方問題は,クリミア戦争の導火線となった聖地管理権をめぐる紛争,嘆きの壁に関してイギリスがおこなったユダヤ教徒・ムスリム間の対立の扇動などをとって見ても,それが聖地問題の直接の起点であったことがわかる。第1次世界大戦後,聖地問題ないしエルサレム問題の国際管理が企てられた。それはまず,聖地に関する諸宗教コミュニティの権利および主張の調整にあたるべき特別委員会の設置を定めた国際連盟のパレスティナ委任統治規約第14条によって示された(同委員会はイギリス,フランス,アメリカ,イタリア,スペイン,バチカンの利害対立で機能を妨げられた)。ついでそれは,1947年の国際連合総会によるパレスティナ分割決議がエルサレムとベツレヘムを切り離された特別区域corpus separatumとして国際化しようとする計画を含むものであったことにより示された。この計画では,国際的信託統治制度が志向され,聖地問題を監督し調停する特別の国際的オーソリティの設置が予定されていた。以上のような国際管理プランは,48-49年のパレスティナ戦争(第1次中東戦争)を通じて,ヨルダン・イスラエルによるエルサレムの分割・分断(1949年4月両国間の休戦協定に基づく)により,さらには67年の六日戦争(第3次中東戦争)の結果,同年6月末のイスラエルの聖地保護法制定と東エルサレム併合措置とによって,挫折することになった。聖地問題は,パレスティナ問題の展開において,たえず重大な転機を生みだしている。たとえば,1929年8月の嘆きの壁事件,67年6月以降のエルサレムの都市改造(わけても嘆きの壁前面のアラブ居住区の取壊しと広場の創出),69年8月のアクサー・モスク放火事件,77年11月エジプト大統領サーダートがアクサー・モスクで礼拝に参加したこと,90年10月湾岸危機のもとで発生したハラム・アッシャリーフ(イスラムの聖域)でのイスラエル治安部隊の発砲による殺傷事件,96年9月イスラエル政府がエルサレム旧市街地下の観光用トンネルを開通させたことへのパレスティナ人およびイスラム世界の反発などである。聖地問題は,パレスティナ問題の解決にとってつまずきの石となりかねない,もっとも困難で深刻な課題である。
執筆者:板垣 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報