パレスティナ問題(読み)パレスティナもんだい

改訂新版 世界大百科事典 「パレスティナ問題」の意味・わかりやすい解説

パレスティナ問題 (パレスティナもんだい)

アラブ分割政策(アラブのユダヤ教徒を〈ユダヤ人〉として扱い,これを非ユダヤ教徒としての〈アラブ〉から切り離す)と独特の植民地主義(世界のユダヤ人World Jewryすなわち離散の地diasporaのユダヤ人のパレスティナ植民を国際的に組織する)とを結合させるシオニズム運動(1948年以降はイスラエル国家)と,これを19世紀の東方問題に代わる20世紀の中東支配・管理のための基軸的装置として利用しようとした強国(1917年のバルフォア宣言から第2次世界大戦まではイギリス,フランス,ことにイギリス,第2次世界大戦から1967年まではアメリカ,ソ連,67年以後は主としてアメリカ)の政策とが,からみあってつくり出してきた国際的・社会的紛争。そこでは,絶えず〈アラブ〉対〈ユダヤ人〉,さらにアラブ諸国対イスラエル(中東戦争における構図)という対抗関係の枠組みによる割切りが押しつけられ,また,棄民としてのユダヤ人のパレスティナ導入がパレスティナのアラブの棄民としての排除をもたらすという形式で,国際的連関構造をもった住民追放が系統的に進められた。こうして〈ユダヤ人国家〉の対極として,世界に離散したディアスポラ・パレスティナ人が形成され,パレスティナ民族主義がパレスティナ問題の克服要因として立ち現れはじめた。

 第1次世界大戦後パレスティナの地域的枠組みが画定されたことによって,ユダヤ人国家建設予定地の中に囲い込まれた住民が,自分たちの運命の収奪に抗する闘いの中で,〈パレスティナ人〉となっていった。アラブ民族主義を分断しようとするパレスティナ問題は,全アラブ地域に共通の問題を投げかけたが,上述のような特殊な形態の植民地主義は,アラブ一般には解消できないパレスティナ人独自のアイデンティティをもまた発展させることになったのである。

パレスティナ問題の歴史は,大局的には次のような段階に分けて理解することができる。(1)1880年代~1917年,(2)1917-48年,(3)1948-67年,(4)1967-93年,(5)1993年以降。(1)→(2),(2)→(3),(3)→(4),(4)→(5)の境目は,それぞれ,バルフォア宣言,イスラエル建国,第3次中東戦争(六日戦争,六月戦争),オスロ合意である。各段階の特徴は以下のようである。(1)パレスティナ問題の成立に先立つ前史の段階。東方問題の行詰りの時代にあたり,シオニズムの形成期。(2)パレスティナ問題の形成の段階。イスラエル国家の成立へと導く前史の段階。(3)パレスティナ問題の展開の第1期。〈アラブ・イスラエル紛争〉と呼ばれる装置が機能しえたかに見え,アラブ民族主義対ユダヤ民族主義の対抗という説明による割切りが働いていた段階。問題をアラブとユダヤ人との久しい民族的・宗教的確執・抗争として描き出す宣伝がある程度効力を発揮した時代。(4)パレスティナ問題の展開の第2期。パレスティナ人の民族的主体性の形成の段階,すなわちパレスティナ解放機構(PLO)の組織に体現されたパレスティナ民族主義の成立・展開期。(5)パレスティナ問題の展開の第3期。イスラエル国家のもとで,またその脇に,パレスティナ人の国家形成が進行する段階,すなわち(4)の時期に発生したイスラエル占領支配地域において限定的に設定されるパレスティナ人自治が,離散パレスティナ人の問題と微妙に結合し,また切断されつつ,ジグザグに発展する時代。以上のような各段階において,パレスティナとして区画された地域(その画定が行われたのは(2)の初期)を支配した勢力は,次のとおりである。(1)オスマン帝国,(2)イギリス,(3)イスラエル,ヨルダン,エジプトによる3分割,(4)イスラエル,(5)イスラエル,(限定条件付きで)〈パレスティナ〉。

オスマン帝国下のアラブ住民を,同帝国の宗派別編成(ミッレト制)につけこんで,宗教・宗派間で分裂させ,その対立・紛争を利用しようとしたヨーロッパ諸国の東方問題の装置・操作は,宗教・宗派の違いを超えてアラビア語文化に基づくアラブの一体性を強調するアラブ民族主義のために,有効性を失ってしまった。このとき,〈キリスト教的〉欧米社会での被差別者集団としてのユダヤ人の植民運動を,帝国主義の世界分割運動に寄生しながら進めようとして,列強,わけてもイギリス政府に自らを高く売り込んでいったのが,シオニズムであった。それは,東方問題で煽動・挑発されたような多角的宗派紛争に代えて,アラブ社会をユダヤ教徒であるかないかを基準に分割する考え方を押しつけた。これは,アラビア語で生活するユダヤ教徒もアラブの一員だと見なし,〈ユダヤ教徒〉という観念はもっても〈ユダヤ人〉という観念はもたなかったアラブ社会に,ヨーロッパのユダヤ人問題を強要しようとする政策であった。

イギリス政府がシオニズムに対して公的な支持を与えたバルフォア宣言に基づくパレスティナ委任統治の成立のもとで,上述のような植民地主義と分裂政策の複合が,組織的に遂行されるようになった。アラブ対ユダヤ人という対立の構図があらゆる面で設定されたが,ユダヤ人入植者および原住民ユダヤ教徒を強引に一括するイシューブ(パレスティナのユダヤ人社会)が急激な拡大局面を迎えたのは,1930年代に入って,ヨーロッパからユダヤ人を狩り立てるナチスのアンチ・セミティズムの異常な圧力が加わってからである。移住はアメリカ合衆国を中心とする諸財団・基金の援助によっても促進された。欧米の反ユダヤ主義がこぞって,東・中欧社会からパレスティナに向かっての被差別者の大規模な人口移動を組織したのだといえる。これに対して,たちまち1920年代初めから現地アラブ住民の抵抗が始まったとはいえ,初期においては土地代金の入手で潤うアラブ地主層はイギリス当局に懐柔され,また民衆にとってもシオニズムの意図やヨーロッパの反ユダヤ主義の強要の意味を見抜くことは容易でなかった。

 エルサレム問題の最初の爆発ともいうべき29年の嘆きの壁事件,さらに30年代半ばの植民者の激増とイシューブの独自の経済体制の成立とに伴うパレスティナ社会の激変,そこでアラブ住民を土地と仕事から切り離すシオニストの強硬なアラブ駆逐運動に反発して起きた36-39年のアラブ反乱などを通じて,パレスティナ人の大衆運動は,エルサレムのムフティー,アミーン・アルフサイニーの指導下で,しばしばジハード論的宗教抗争の方向に誘導された。37年のピール報告から47年の国際連合のパレスティナ分割決議(ユダヤ人国家,アラブ国家,国際化エルサレムへの)に至る諸計画が国際政治の中で論議されていたとき,36年に発揮されたようなパレスティナのアラブの政治的・軍事的抵抗力は,弾圧によってすでに根こそぎ破壊されており,国際社会もパレスティナ人の自決権に顧慮を払わなかった。

 30年代末以降,イギリスは,アラブ対ユダヤ人の対立を操縦するバランス政策を維持するために,すでにパレスティナ地域の枠付けとリンクさせながら創出していた周辺アラブ諸国の支配層を動員し,そのアラブ民族主義を利用して,これをパレスティナ問題の一方の〈当事者〉に仕立てあげた。パレスティナのアラブ住民の抵抗は粉砕されたが,周辺アラブ諸国のアラブ民族主義は鼓舞激励されたのである。イギリスのバランス政策に反発したシオニズム運動は,第2次世界大戦のもとで,アメリカ合衆国政府を新しいパトロンとする乗換政策に踏み切った。大戦が終わったとき,主導権はイギリスからアメリカに移っていた。ソ連は,中東でのイギリスの勢力を打破する目的で,パレスティナ問題に関する限りはアメリカと同調する姿勢を示した。国連のパレスティナ分割決議(1947年11月)は,米ソの一致の上に実現する。周辺アラブ諸国がこの決議を拒否する一方で,シオニストは,米ソの支持,ことにソ連の軍事的援助を得ながら,アラブ住民追放の心理作戦を進め,国連の分割予定線を越え出る陣取りを進めつつ,イギリスによる委任統治終結予定日(1948年5月14日)にイスラエル国家の独立を宣言するに至る。

イスラエル国家の成立とともに,周辺アラブ諸国はこれへの攻撃を開始し,第1次中東戦争(パレスティナ戦争,イスラエル独立戦争)となった。49年,交戦アラブ各国(イラクを除く)とイスラエルとの休戦とともに,各休戦ラインの総和として,イスラエルの境界線が結果的に定まることとなった。ヨルダン川西岸地区はヨルダン(当時の呼称はトランス・ヨルダン)により占領・併合され,ガザ地帯はエジプト軍のおさえるところとなって,パレスティナは3分割された。エルサレムは,ヨルダンとイスラエルとの間で東西に分割され,市街の中に軍事境界線がおかれた。こうして国連の分割決議は,新しい既成事実によって乗り越えられてしまう。パレスティナのアラブ住民の多数が郷土から放逐され,離散のパレスティナ人となって周辺アラブ諸国に難民として流出した。また,踏みとどまったアラブは三流・四流のイスラエル市民として位置づけられる。こうしてパレスティナ人の問題は〈アラブ・イスラエル紛争〉の論理に従属させられ,中東戦争の現実の中に隠蔽された。64年に成立したパレスティナ解放機構(PLO)も,アラブ諸国のパワーゲームの道具立てにすぎなかった。対イスラエルという面でも,アラブ諸国の足並みがそろっていたわけではない。

 48-49年の第1次中東戦争では不統一が露呈したし,56年の第2次中東戦争(スエズ戦争,シナイ戦争)ではイラクがイギリス軍のエジプト攻撃の基地ともなった。また67年の第3次中東戦争では,エジプトは,イエメンを舞台にサウジアラビアと戦いながら,イスラエルの奇襲で大敗するという2正面の戦闘を強いられた。他方,イスラエルは,56年の第2次中東戦争においてイギリス,フランスと組んでエジプトのスエズ運河国有化をたたこうとしたように,建国後はたちまち,中東の既存の支配秩序の維持のためアラブの社会革命を抑える役割を演じるようになった。イギリス,フランス,イスラエル3国のスエズ侵略に対しては,アメリカ,ソ連は共にこれを厳しく非難する立場をとったが,イギリス,フランスの旧植民地主義勢力が56年を境に退潮することになると,今度はアメリカがイスラエルの役割を最も必要とすることになる。しかし中東の革命に対立するイスラエルが,67年の第3次中東戦争では,ヨルダンからヨルダン川西岸を,エジプトからガザ地帯を含めてシナイ半島全域を,シリアからゴラン高原を奪い取ることにより,49年の境界線を,そしてパレスティナ3分割体制を,劇的に〈革命的〉に変更する皮肉な結果を導き出した。

イスラエルは第3次中東戦争で占領した東エルサレムを併合しただけでなく,他の広大な占領地を国家の安全のため確保し,同時にアラブ諸国にイスラエルの存在を認知して交渉のテーブルにつかせるための圧力として,占領を持続した。67年11月,国連安全保障理事会は決議242号を採択し,イスラエルを含む中東域内諸国の生存権の保障を確認するとともにイスラエル軍の占領地からの撤退を求めたが,イスラエル占領地問題はこの段階を通じて解決されぬまま深刻化した。第3次中東戦争後,PLOはパレスティナ抵抗運動諸組織(ファタハ,人民戦線PFLPなど)を基盤に再編成され,各地のパレスティナ人の革命化・急進化が進んだ。そこでは,ムスリム,ユダヤ教徒,キリスト教徒が共存する単一の民主的・非宗派的パレスティナ社会の建設が目標とされ,イスラエル市民をも巻き込む新しいパレスティナ人の形成が目ざされるようになった。中東戦争ならびにアラブ諸国・イスラエル間の和平の枠組みを維持すべく戦われた73年の第4次中東戦争(十月戦争,ヨーム・キップール戦争)をはさんで,アラブ諸国も,上のような民族的主体性を発展させつつあったパレスティナ人の運動に対して,抑圧(たとえば1970年のヨルダンの黒い九月事件,75年以降のレバノン内戦)と対応(たとえばPLOをパレスティナ人の唯一の正統の代表機関と認めた1974年のラバトでのアラブ首脳会議)との間を揺れ動いた。また,パレスティナ人の民族的自決権,帰郷または補償を受ける権利の承認こそ中東の平和の前提条件であるべきだ,という認識と,これに沿って中東和平問題の過程にPLOを参加させるべきだという要求とが,国際的に広く受け入れられるようになった。

 これに対して,占領地を維持して占領地パレスティナ人をイスラエルの労働力として組み込みながら,占領地でのユダヤ人入植地の拡大を進めつつあったイスラエルは,77年リクード政権の成立後,77年エジプトのサーダート大統領のエルサレム訪問を機として,78年キャンプ・デービッド合意,79年エジプト・イスラエル平和条約(1982年春までにシナイ半島をエジプトに段階的に返還)によってエジプトと国交を樹立して,アラブ諸国を切り崩す一方,占領地のイスラエル化を促進し,80年エルサレム恒久首都化法,81年ゴラン高原併合,78年以降の継続的な南部レバノン攻撃によって,上記のような国際世論の動向に対して抵抗した。そして82年6月全面的なレバノン戦争を開始し,レバノンからPLOおよびパレスティナ人武装勢力を排除することに成功した。レバノン戦争によって,南部レバノンのイスラエル占領地という新しい問題も発生した。PLOは大きな打撃を受け,83年以降その内部で路線をめぐる分裂・対立が生じた。しかしレバノン戦争によって,イスラエルの国論の分裂もまた深刻となり,経済的困難はその占領地政策に重大な変更を迫るものとなった。

 87年末にヨルダン川西岸とガザ地区で始まったパレスティナ人の反イスラエル住民蜂起(インティファーダ)は長期化し,パレスティナ人の運動に新たな地平を開いた。このインティファーダを背景に88年11月,パレスティナ民族評議会(PLOの国会)が開催され,PLOのアラファート議長はエルサレムを首都とするパレスティナ国の独立を宣言した。そして同年12月のパレスティナ問題に関する国連特別総会で,アラファート議長はイスラエルとの共存をうたう和平案を提案した。これを評価したアメリカは直ちにPLOと初の公式会談を行った。しかしイラクのクウェート侵攻とともに始まった湾岸危機(湾岸戦争)の結果,状況は大きく様変りして,PLOの地位の弱化と組織的解体とを伴いつつ,米国主導のマドリード中東和平会議が開始されることになった。その過程では,二国間交渉・多国間交渉のいずれにおいてもPLOの役割を局限しようとする力が働いた。

1992年6月イスラエル労働党のラビン政権の成立後,ノルウェーの仲介で行われたイスラエル-PLO秘密交渉により,93年夏オスロ合意が成り,イスラエルとPLOの相互承認のもとに同年9月ワシントンでパレスティナ暫定自治に関する原則宣言が調印される。その後,94年2月には,ユダヤ人入値者がヘブロンのモスクで乱射,多数の死傷者を出す事件が起きるなどして,交渉の予定表にはたえず遅れが生じたが,同年5月の暫定自治合意(カイロ協定)を経てガザおよびイェリコでまずパレスティナ暫定自治が実施され,ついで95年9月の合意(オスロII)に基づいて自治地域はヨルダン川西岸地区のなかでしだいに拡大されるなど前進が見られた。1994年10月にはヨルダン・イスラエル平和条約も調印された。しかし95年11月ラビン首相が暗殺され,96年2~3月パレスティナ人によるバスや街頭での爆弾事件をへて,同年5月イスラエル総選挙でリクードのネタニヤフ政権が成立すると,イスラエルの入植地拡張政策,自治地域封鎖措置などにより,交渉は停滞し事態は悪化するにいたった。パレスティナ人自治はパレスティナ人内部のイスラム運動からの批判にもさらされる。1948年以来のパレスティナ難民の諸権利の回復・補償,エルサレムの将来の地位,パレスティナの恒久的地位などに関する交渉が先送りされる状況のもとで,離散パレスティナ人の切捨ても進行する。砕片的飛地の〈原住民保留地〉集合としての〈パレスティナ〉政治体の形成と発展は,つねにパレスティナ人の消滅か独立かの岐路を危機的に内蔵するものとなっている。
イスラエル →中東戦争 →パレスティナ →ユダヤ人
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百科事典マイペディア 「パレスティナ問題」の意味・わかりやすい解説

パレスティナ問題【パレスティナもんだい】

パレスティナをめぐるアラブ勢力とイスラエルの間の紛争。19世紀初めからシオニズム運動の高まりの結果,ユダヤ人のパレスティナ流入が盛んになった。第1次大戦中,英国が,フサイン=マクマホン書簡でアラブ人に,バルフォア宣言でユダヤ人に,それぞれパレスティナにおける建国を約束するという矛盾した政策をとったため,戦後両民族の対立が激化した。第2次大戦後パレスティナは分割され,ユダヤ人はイスラエル共和国を建国。これを機に1948年,1956年,1967年,1973年の4次の中東戦争と武力抗争が続いた。これらの戦争の過程で多くのパレスティナ・アラブ難民が周辺諸国に流入した。第3次中東戦争の結果,ナーセルの指導力は後退し,アラブ諸国にかわってパレスティナ人自身による組織PLO(パレスティナ解放機構)が解放運動の主体となった。また第4次中東戦争以後,パレスティナ人の国家樹立を含む民族的権利の行使を認めない限り,中東に永続的な平和がもたらされないという認識が世界中に深まり,PLOの国際的地位が高まった。こうしたなか,エジプトとイスラエルとの和平(キャンプ・デービッド合意),レバノン戦争によるベイルート撤退で打撃を受けたPLOは,武装闘争から現実的な外交戦略に路線を変更。1967年以来イスラエル占領下におかれたガザ地区とヨルダン川西岸地区が問題の焦点となった。1988年にはPLO・イスラエル間に歴史的な相互承認が成った。さらに湾岸戦争でアラブ諸国の分裂は決定的となり,アメリカ主導の中東和平プロセスのもと,1993年PLOとイスラエルはパレスティナ暫定自治宣言に調印,ガザ,イェリコの両地区にパレスティナ暫定自治政府が樹立されることになった(オスロ合意)。しかし,イスラエルで2001年リクード党のシャロン政権が登場して以後,オスロ合意による和平交渉は行き詰まった。米国における9.11事件以後シャロン政権は一層強硬策に転じ,2002年にはパレスティナ自治区に軍事侵攻し,これに対する自爆テロも激発した。アメリカのブッシュ政権は2003年のイラク戦争後,パレスティナ国家の独立とイスラエルとの共存をめざす〈ロードマップ(行程表)〉を提示したが,まもなく暴力の連鎖が再燃し,情勢はむしろ悪化した。2004年PLOのアラファート議長の死後,穏健派のM.アッバスが後任となり,和平交渉の気運が高まった。2005年8月,ガザ地区と西岸地区の北部の一部からのイスラエル人入植者の退去が完了した。しかし2006年ハマースが総選挙で勝利し,2007年にハマースと穏健派のファタハの連立政権がいったん成立したが,内部抗争が続き,さらに内戦状態となり,連立政権は崩壊した。イスラエルと米国はハマースを交渉相手と認めず,2008年12月イスラエルはガザ地区のハマースを空爆,さらに2009年1月には地上侵攻した。2009年2月のイスラエル総選挙で,ネタニヤフ率いるリクードが第1党は逃したものの躍進し,労働党などとの右派連立を実現,ネタニヤフが10年ぶりに首相に返り咲いた。ネタニヤフは,入植事業の継続政策を加速,入植凍結を和平交渉再開の条件とするパレスティナ政府との溝はさらに拡がった。パレスティナは2011年9月,はじめて国連に加盟申請を行い,2012年11月,国連総会は,パレスティナ自治政府の参加資格を,オブザーバー組織からオブザーバー国家に格上げする決議案を賛成多数で承認した。パレスティナを国家として承認する国も増えている。しかし,2013年1月のイスラエル総選挙でリクードは,同じく右派・極右のイスラエル・ペイティヌとともにリクード・ペイティヌとして統一名簿で臨み,大幅に議席は減らしたものの第1党を確保,3月右派・中道連立内閣を発足させ,ネタニヤフが3度目の首相となった。2014年7月イスラエルはガザ地区のハマース拠点に猛攻撃を加え,8月末停戦合意が成立したが,パレスティナ住民2000人が犠牲となった。2015年3月の総選挙ではリクードはシオニスト・ユニオンに追い上げられたものの第1党を確保,ネタニヤフが連立政権を引き続き率いるとされている。
→関連項目アッバスイスラエルインティファーダエルサレムサイクス=ピコ協定聖地問題第1次世界大戦中東パレスティナ自治政府バンチユダヤ人ヨルダン

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世界大百科事典(旧版)内のパレスティナ問題の言及

【イスラエル[国]】より

…イギリスはユダヤ,アラブ両者の対立抗争に妥協を見いだすべくさまざまな提案を行ったが,結局収拾することができず,第2次世界大戦後,委任統治の放棄を決意して国際連合に問題の解決をゆだねた。 国連総会は47年11月29日,イギリス委任統治下のパレスティナをユダヤ国家,アラブ国家およびエルサレム特別管理地区の三つに分割するという決議(パレスティナ分割決議)を賛成33,反対13,棄権10で採択した。ユダヤ側はこの決議を受け入れたが,アラブ側はこれを認めず,この決議が採択された直後からパレスティナではユダヤ人とアラブとの激しい内戦が開始された。…

【中東戦争】より

…第2次大戦後,経済的に疲弊したイギリスにはもはや事態を抑える力がなく,47年2月パレスティナ問題を国連にゆだねることに決定した。4月,国連特別総会が招集され,国連パレスティナ特別委員会United Nations Special Committee on Palestine(UNSCOP)の報告に基づき,11月29日国連総会はパレスティナの分割を決議し(パレスティナ分割決議),イギリス政府は48年5月15日をもって委任統治を終結することを決定した。
[第1次]
 パレスティナ分割をいっさい認めないアラブ側はユダヤ人に対するゲリラ闘争を展開,ユダヤ人側は分割案を受け入れ建国を準備するかたわら,シオニストのテロ組織はエルサレム近郊のディル・ヤーシーン村を襲撃,住民を虐殺し,パレスティナの村々にユダヤ人部隊に対するパニックをひきおこした。…

【パレスティナ問題】より

… エルサレム問題(聖地問題)の最初の爆発ともいうべき29年の嘆きの壁事件,さらに30年代半ばの植民者の激増とイシューブの独自の経済体制の成立とに伴うパレスティナ社会の激変,そこでアラブ住民を土地と仕事から切り離すシオニストの強硬なアラブ駆逐運動に反発して起きた36‐39年のアラブ反乱などを通じて,パレスティナ人の大衆運動は,エルサレムのムフティー,アミーン・アルフサイニーの指導下で,しばしばジハード論的宗教抗争の方向に誘導された。37年のピール報告から47年の国際連合のパレスティナ分割決議(ユダヤ人国家,アラブ国家,国際化エルサレムへの)に至る諸計画が国際政治の中で論議されていたとき,36年に発揮されたようなパレスティナのアラブの政治的・軍事的抵抗力は,弾圧によってすでに根こそぎ破壊されており,国際社会もパレスティナ人の自決権に顧慮を払わなかった。 30年代末以降,イギリスは,アラブ対ユダヤ人の対立を操縦するバランス政策を維持するために,すでにパレスティナ地域の枠付けとリンクさせながら創出していた周辺アラブ諸国の支配層を動員し,そのアラブ民族主義を利用して,これをパレスティナ問題の一方の〈当事者〉に仕立てあげた。…

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