因島庄(読み)いんのしまのしよう

日本歴史地名大系 「因島庄」の解説

因島庄
いんのしまのしよう

因島全島を荘域としたと思われる荘園で、後白河院によって形成された長講堂領の一つ。建久二年(一一九一)一〇月日付の長講堂所領注文(島田文書)に「因島 募臨時所課並預所得分、勤仕女房外居」と記されるのみで立券の時期など詳細は不明。年号不詳の六条殿修理料支配状写(八代恒治氏所蔵文書)には「備後因島庄」と荘号がみえる。

その後因島庄は三ヵ所に分割されて三津みつ庄・なか庄・重井しげい庄と称される。建治二年(一二七六)八月日付の備後国御調郡内諸庄園領家地頭注文(教王護国寺文書)によると「三津庄」は「領家常光院領」「地頭右近将監」とあり、「十町一反百九十歩 加請田三丁定」。「因島中庄」は「領家宣陽門院御領」とあり六丁と記して「地頭相模左近大夫将監殿御給」とする。「重井浦」は「同領家 左近大夫将監入道正円」とあり二反一二〇歩を記して「地頭御家人左衛門尉秀氏伝領也、国ノ大田文前注之、公田之」とする。建久三年後白河院の没後、長講堂領は皇女宣陽門院覲子内親王に伝領されたが、因島庄については三津庄のみ同皇女前斎院式子内親王(のちに白川常光院に入る)に分与されたと推定される。なお中庄については検討の余地がある史料ではあるが、貞応元年(一二二二)一一月一一日付比良木禰宜鴨県主下文(因島村上文書)にすでにその名がみえ、清原守高なる人物が給田八反の公文職に補任されている。

地頭職前掲の建治二年の注文にみえるように、中庄は北条宗政、他の二ヵ所もおそらく北条一門が有したと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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