日本歴史地名大系 「因島市」の解説 因島市いんのしまし 面積:三九・三六平方キロ三原市の南東海上に浮ぶ旧御調(みつぎ)郡の因島を主要市域とする。東北は布刈(めかり)瀬戸を挟んで向(むかい)島、西北は三原市佐木(さぎ)島、西は生口(いくち)島、また南東は弓削(ゆげ)瀬戸を挟んで愛媛県の弓削島、南西は長崎(ながさき)瀬戸を挟んで同県生名(いきな)島にそれぞれ対する。因島以外にも北西海上の細(ほそ)島・小細(こぼそ)島、さらに旧安芸国豊田郡生口島の南東端洲江(すのえ)・原(はら)も市域に含む。島の大半は標高二〇〇―三〇〇メートルの山林で、集落は入江と谷あいに発達し、海岸部には干拓地が多い。「三代実録」元慶二年(八七八)一二月一五日条に「授備後国無位隠島神従五位下」とあるのが地名の初見で、「和名抄」高山寺本には御調郡の郷として因島郷を記す。〔原始・古代〕因島東北部大浜(おおはま)町には縄文晩期の土器や古墳時代の土師器や製塩土器の発見された大浜遺跡があり、また大浜町と細島に一基ずつ、小細島に二基、いずれも小型の箱式石棺を有する小規模な古墳があり、島の南端三庄(みつのしよう)町にも積石塚一基が残る。「三代実録」にみえる「隠島神」は島内に祀られた神と考えられるが、その所在は不明。中庄(なかのしよう)町にあったとする説と三庄町とする説がある。〔中世〕因島は、後白河院によって集積された長講堂領の一つ因島庄とされたが(建久二年一〇月日付「長講堂所領注文」島田文書)、後白河院没後は三分され、三津(みつ)庄は常光院領、中庄と重井(しげい)浦(重井庄)は宣陽門院領となり、建治二年(一二七六)当時には北条一族の地頭がそれぞれに置かれていた(教王護国寺文書)。おそらく全島の地頭職は北条氏得宗に保持されたものと思われる。当時の因島庄は近隣の弓削島(ゆげのしま)庄(現愛媛県越智郡)と同様に塩の特産地であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報