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いわゆる「建武中興(けんむのちゅうこう)」を実現した天皇。後宇多天皇(ごうだてんのう)の第2皇子として正応(しょうおう)元年11月2日に生まれる。母は参議藤原忠継(ふじわらのただつぐ)の娘談天門院(だんてんもんいん)忠子(ちゅうし)。名は尊治(たかはる)。大覚寺統(だいかくじとう)に属し、1318年(文保2)31歳で即位、1321年(元亨1)院政を廃して親政を開始、吉田定房(よしださだふさ)、北畠親房(きたばたけちかふさ)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(としもと)らの人材を集め、記録所を再興して、政務に励むとともに、学問、武芸の振興に努めた。この間、鎌倉幕府打倒の意思を固め、「無礼講」とよんだ講書・酒宴の会合に事寄せ人々を結集して倒幕の秘計を進めたが、1324年(正中1)六波羅探題(ろくはらたんだい)に密偵され、側近の多数が逮捕された(正中(しょうちゅう)の変)。この事件で危うく難を免れた天皇は、その後、皇子の護良親王を天台座主(てんだいざす)にすることによって比叡山(ひえいざん)勢力も引き入れようとするなどして、ふたたび倒幕計画を進めた。しかし1331年(元弘1)4月、吉田定房がまた計画を幕府に密告したため、8月天皇は東大寺に逃れ、ついで笠置(かさぎ)(京都府相楽(そうらく)郡笠置町)に立てこもり、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起(ほうき)を呼びかけた。これに対し幕府は大軍を送って笠置を包囲したため、天皇は捕らえられて1332年隠岐(おき)に流された(元弘(げんこう)の変)。
天皇の隠岐配流中の動静は不明であるが、護良親王、楠木正成(くすのきまさしげ)らの活躍によって反幕勢力の力が強まると、1333年(元弘3・正慶2)閏(うるう)2月、天皇は隠岐を脱出、伯耆(ほうき)(鳥取県)の名和長年(なわながとし)らの支持を得て6月京都に帰った。これに先だつ5月幕府は滅亡したため、天皇は、幕府の擁立していた持明院統(じみょういんとう)の光厳天皇(こうごんてんのう)を廃し、建武新政を開始した。
新政は、従来の伝統にとらわれず、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)も置かないで、天皇が自ら公家(くげ)・武家両者を統率しようとするものであった。中央には記録所、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)、武者所(むしゃどころ)などの新設機関を置き、地方の国々は国守・守護併存とし、従来の官位相当や家柄も無視して公武の人材を登用した。しかし論功行賞においては公家優先であったうえ、従来の所領の領有権は改めて天皇の安堵(あんど)を受けなければならないという強引な政策を打ち出したり、皇居造営のための臨時賦課を強行したりしたため、地方武士の新政に対する不満は急速に高まった。また公家にしても、伝統的な摂関政治型の体制が否定され、天皇独裁のもとに恣意(しい)的な人事が行われたため、それに対する失望は大きかった。
そうしたなかで1335年(建武2)北条残党が蜂起すると、その討伐のために関東に下った足利尊氏(あしかがたかうじ)が反し、天皇は西上した尊氏を避けて叡山に逃れた。尊氏はいったん九州に落ちたのち再度入京、天皇を花山院(かざんいん)(京都市上京区、京都御苑(ぎょえん)内)に幽閉した。このため天皇は1336年12月吉野に逃れ、ここにいわゆる吉野朝廷が開かれ、以後南北朝併立時代に入る。天皇は諸皇子を各地方に派遣し、地方武士の掌握に努めたが、これも次々に敗れ、吉野に従う公家も少なく、孤立が深まるなかで、1339年(延元4・暦応2)義良親王(のりよししんのう)(後村上天皇(ごむらかみてんのう))に譲位、同年52歳で死去した。遺詔により後醍醐と諡号(しごう)したが、それは生前自ら撰(えら)んだものという。
陵墓は奈良県吉野町の塔尾陵(とうのおりょう)。
天皇は日本史上異例の独裁型執政を行うことによって波瀾(はらん)に満ちた生涯を送ったが、朱子学や真言(しんごん)の教義に通じるとともに、典礼、和歌などにも造詣(ぞうけい)深く、『建武年中行事』『建武日中行事』を著した。また吉野時代には「事問はん人さへ稀(まれ)になりにけり我世の末の程そ知らるる」の歌もある。
[永原慶二]
『佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』(1965・中央公論社)』
第96代に数えられる天皇。在位1318-39年。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院藤原忠子。1302年(乾元1)親王宣下。諱(いみな)は尊治(たかはる)。04年(嘉元2)大宰帥となり,帥宮(そちのみや)といわれた。当時,皇統は大覚寺・持明院両統に分裂していたが,大覚寺統の後宇多は第1皇子である後二条天皇の子邦良に皇位を伝えようとし,尊治は邦良幼少時の中継ぎとして08年(延慶1)持明院統の花園天皇の皇太子に立った。尊治は儀式典礼に関心深く,学問・和歌など諸道に意欲的である一方,一生の間に20人前後の女性に40人近い子女を産ませたように,絶倫な精力の持主であった。18年に即位して以後,宋学への傾倒は著しく,21年(元亨1)親政開始後,強烈な個性をその政治に発揮する。それは著書《建武年中行事》《建武日中行事》等に結実する朝儀復興にとどまらず,綸旨(りんじ)に万能の力を与え,官位と家格の関係の固定化を打破して日野資朝,日野俊基らを登用したように,みずからの意志で貴族を位置づけ,寺社の神人・寄人に対する支配を排除しようとするきわめて専制的な意図を秘めており,親政機関の記録所の動きも活発であった。生前にみずからの諡号(しごう)を〈後醍醐〉と決めたように,延喜・天暦の治がそのよりどころだったが,後醍醐の政策は単なる復古ではなく,むしろ宋の君主独裁政治を目ざしたものとみられている。
皇位を左右する鎌倉幕府が否定さるべき存在となるのは当然で,24年(正中1)腹心の貴族,僧侶,美濃源氏等を無礼講の場に集めて練った討幕計画(正中の変)の失敗後も,後醍醐は討幕を断念しなかった。26年(嘉暦1)皇太子邦良の死後,幕府は後伏見天皇の皇子量仁(光厳天皇)を皇太子としたので,後醍醐の地位はさらに危くなり,30年(元徳2)以降,後醍醐は再び討幕に向かって動き出す。しかし,南都北嶺に皇子を入れ,みずから行幸して衆徒を味方につけるとともに,関所停止令を発して商工民をひきつけ,悪党を組織して討幕に驀進(ばくしん)する後醍醐に,近臣吉田定房,北畠親房は危惧を抱き,31年(元弘1)計画は幕府にもれ,後醍醐は笠置で挙兵したが捕らわれて隠岐に流された(元弘の乱)。この失敗にもめげず,出家を拒否し元弘の元号を使いつづける後醍醐は,護良親王,楠木正成の軍事行動に呼応して33年隠岐を脱出,名和長年に擁せられ,船上山から諸国に挙兵を呼びかけ,足利高(尊)氏らの内応を得て,ついに幕府を滅ぼし,建武新政を開始した。〈朕の新儀は未来の先例〉という言葉のとおり,その政治は著しく専制的で,武将・貴族たちの強い反発を招き,新政は36年(延元1・建武3)には瓦解する。しかし後醍醐はなおも吉野に南朝をひらき,北朝を奉ずる足利氏の幕府に対抗,京を回復する夢を抱きつづけたが,相次ぐ南軍の敗報のなかで39年吉野で死んだ。後醍醐を最後として,天皇は全国的な政治の実権から離れることとなる。
→南北朝時代
執筆者:網野 善彦
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(網野善彦)
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1288.11.2~1339.8.16
在位1318.2.26~39.8.15
後宇多天皇の第2皇子。名は尊治(たかはる)。母は藤原忠継の女談天門院忠子。1308年(延慶元)持明院統の花園天皇の皇太子となり,18年(文保2)即位。はじめは後宇多上皇の院政であったが,21年(元亨元)親政をとり,家格にとらわれず人材を登用した。正中の変・元弘の乱と2度の倒幕計画に失敗し,32年(元弘2)隠岐島に配流。同年中に護良(もりよし)親王・楠木正成らが再び挙兵すると,翌年隠岐を脱出,伯耆の名和長年の援助をうけ,船上山(せんじょうさん)にたてこもり,倒幕命令を各地に発した。これをうけた足利尊氏が六波羅探題,新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼすと帰京し,建武新政を開始した。しかし政局を安定させることができず,尊氏の離反を招き,36年(建武3・延元元)吉野へのがれて南朝を樹立。39年(暦応2・延元4)後村上天皇に譲位して没した。著書「建武年中行事」。
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…とくに1324年(正中1)には,本所一円地への守護使の入部を含むきびしい禁圧令をもってこれに臨んだが,効果なく,むしろ頻発する紛争のさい,当事者が互いに相手を〈悪党〉とよび,禁圧令を適用させようとする動きが広がり,幕府に対する不信感を増大させる結果を生んだ。 この不満を組織して,討幕の方向に導いたのが後醍醐天皇で,楠木正成,赤松円心,名和長年など,その直属武力はいずれも悪党的性格を持つ武士団であった。南朝が室町幕府に完全に圧倒されながらも,長く命脈を保ったのは,悪党・海賊的な武力を多少ともその基盤となしえたからにほかならない。…
…阿野公廉の女。後醍醐天皇の妾。1319年(元応1)西園寺実兼の女禧子(のち後京極院)が後醍醐天皇の中宮として入内するに際して,洞院公賢の養女としてその女房になり後宮に入った。…
…町域の大部分が山林であるが,木津川沿岸には耕地が開け,南岸を関西本線,北岸を国道163号線が貫通する。南部にある笠置山は,花コウ岩類岩石の風化による奇岩怪石と後醍醐天皇が行在所(あんざいしよ)を置いた笠置寺などで知られている。これと木津川峡谷をあわせて笠置山府立自然公園に指定され,多くの人を集めており,観光は町の重要な産業になっている。…
… 前述のように,後嵯峨法皇が後継者について意思を示すことなく没したため,その皇子の後深草上皇と亀山天皇の間で治天の君をめぐる紛糾が生じ,後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立に発展した。大覚寺統の後醍醐天皇は,治天の君や天皇の地位に対する幕府の干渉に不満を抱き,幕府の動揺を見て幕府打倒を決意した。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中の変),31年(元弘1)にも幕府方に知れ,天皇は隠岐に流されたが(元弘の乱),討幕の兵は各地におこり,33年,ついに幕府を滅ぼした。…
…一方,〈治天の君〉や天皇の選定に関する幕府の干渉は,持明院統・大覚寺統の対立を激化させ,両統は互いに幕府に働きかけて自派の有利を図った。大覚寺統の後醍醐天皇は幕府の干渉に不満を抱き,幕府打倒の計画を進めた。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中の変),31年(元弘1)にも計画が漏れ,天皇は隠岐に流されたが(元弘の乱),討幕の兵が各地で蜂起し,33年にはついに幕府を滅ぼした。…
…1333年(元弘3)5月に鎌倉幕府を滅ぼしてから,36年(延元1∥建武3)10月に足利尊氏に降伏するまでの後醍醐天皇の政治。
[新政の前提]
1321年(元亨1)12月の親政開始後,後醍醐は独自な政治を展開,32年には神人(じにん)公事停止令により洛中の神人・寄人(よりうど)の供御人化を計り,諸国の供御人交名(きようみよう)を提出させ,洛中の酒屋に造酒司を通じて酒鑪役(しゆろやく)を賦課し,洛中の地子も停止したと推定される。…
…後醍醐天皇が著した有職書。1334年(建武1)成立。…
…入宋して禅を伝えた栄西をはじめ,宗峰妙超,夢窓疎石,雪村友梅,また渡来僧の蘭渓道隆,無学祖元,一山一寧などが超俗の墨跡を伝えている。宋・元の書の影響は宸翰(しんかん)にもあらわれ,宋学に心を寄せ,禅宗に帰依した後醍醐天皇の宸翰は,和風の中に黄庭堅風の宗峰妙超の書風が見られ,覇気横溢した書として名高い。南北両朝の宸翰は競ってみごとであり,宸翰様と呼ばれる。…
…後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとして失敗した初度の政変。天皇は1321年(元亨1)12月親政を開始し政道刷新に旺盛な意欲をみせた。…
…宸翰とは天皇の筆跡のこと。日本書道史上では数多の宸翰のうち,後醍醐天皇など南北朝時代の宸翰の和様を特に〈宸翰様〉と称している。後醍醐天皇は朱子学の造詣が深く,禅宗にも帰依し,おのずから当時流行の宋風と禅林の書法をうけ,和様書道に新風をもたらしたが,同時代の他の天皇もおおむね他の時代とは異なる奔放で気迫のある書風を展開した。…
…ことに持明院,大覚寺両皇統の対立が皇位の継承を複雑にすると,皇位と治天の君が分離し,それぞれ別個に定められ,継承される事態を招いた。後醍醐天皇の討幕運動は,この天皇と治天の君の再統合を図ったものということもできる。
[鎌倉・室町幕府と天皇]
1185年(文治1),源頼朝は〈日本国総追捕使,日本国総地頭〉に任命され,全国の軍事警察権を一手に掌握し,武士勢力を直接,間接に支配するに至った。…
…鎌倉時代と室町時代の中間にあたるが,広義の室町時代に含まれる。通常,1336年(延元1∥建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期をその始期とする。また政治体制だけでなく,社会構成の変化を目安とすれば,14世紀初頭ころから徐々に南北朝時代的な状況に入っている。…
…1302年(乾元1)亀山はいったんそのすべてを後宇多上皇に譲るが,05年(嘉元3)これを改め,庁分を後宇多に与えたのみで,他の御願寺領を後宇多の異母弟恒明親王に譲る。06年(徳治1)の目録によると荘園数はさらに増えているが,亀山の死後,後宇多は安楽寿院領を除き他の御願寺領を恒明から取り戻し,08年(延慶1)一期(いちご)の後(当人死後)はすべて後二条天皇の子邦良親王に譲与する条件で,子息尊治親王(後醍醐天皇)に譲った。こうして八条院領の大部分は後醍醐の管領するところとなったが,建武新政崩壊の結果,その実をほとんど失うにいたった。…
…08年(延慶1)後二条の死とともに即位。その皇太子は9歳年長の尊治(後醍醐天皇)であった。諸社の嗷訴,異国襲来の恐怖など鎌倉末期の不安定な社会情勢の中で,伏見の院政の下にあって,きまじめな花園は災いの責任をみずからの不徳に帰しつつ古典の読書に励んでいるが,京極為兼の失脚,伏見と後伏見の対立,伏見の死など,持明院統の退潮とともに18年(文保2)退位,後醍醐に譲位した。…
…奈良県吉野郡吉野町吉野山に鎮座。後醍醐天皇を主神とし,楠木正成,吉水院宗信法印を配祀する。もと吉水(きつすい)院と称し,役小角(えんのおづぬ)の創立と伝える吉野修験金峯山寺の僧坊で,後醍醐天皇吉野潜幸のとき,しばらく行宮(あんぐう)とされた。…
…また長講堂領荘園を伝領した持明院統に対して,大覚寺統は八条院領荘園を入手し,さらに室町院(暉子内親王)の死後相続人が定まっていなかった室町院領荘園をめぐって両統は激しく対立し,結局幕府の仲介でこれを両統で折半することとなったが,両統の間の溝はさらに深まった。後二条天皇の死後は,両統迭立の原則から持明院統の後伏見上皇の弟富仁親王(花園天皇)が皇位につき,後二条天皇の弟尊治親王(後醍醐天皇)が皇太子となった。このとき,持明院統の皇位は後伏見系に,大覚寺統の皇位は後二条系にそれぞれ将来は伝えられるべきことが定められており,持明院統が後伏見系と花園系に,大覚寺統が後二条系と後醍醐系に再分裂し,両統分立が四統分立になる兆候が見られた。…
※「後醍醐天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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