国分郷(読み)こくぶごう

日本歴史地名大系 「国分郷」の解説

国分郷
こくぶごう

桑原くわはら郡の東部と囎唹そお郡の西部を占めた鹿児島藩の外城で、東は敷根しきね郷、西は加治木かじき郷、北は曾於郡そのこおり郷、北東は清水きよみず郷で、南は海(鹿児島湾)に面していた。「薩隅日地理纂考」によると周回一六里一八町五三間、東・西に二分され、囎唹郡に属する東国分郷は上小川かみこがわ村・新町しんまち村・府中ふちゆう村・川内かわうち村・上井うわい村・下井したい村・向花むけ村、住吉すみよし(現隼人町)の八ヵ村、桑原郡に属する西国分郷は村・松木まつき村・福島ふくしま村・野口のぐち村、小浜おばま村・うち村・内山田うちやまだ村・真孝しんこう村・見次みつぎ村・小田おだ村・野久美田のくみだ(現隼人町)の一一ヵ村の計一九ヵ村からなっていた。鹿児島藩直轄領。地頭仮屋・麓は上小川村に置かれ、年代不詳であるが国分・小川、百引もびき(現輝北町)の初期の地頭として今井市兵衛入道松関の名がみえ、慶長六年(一六〇一)には山田越前入道有信が地頭であった。

国分郷
こくぶごう

壱岐国にみえる中世の郷村名。古代の島分寺(国分寺)に由来する地名で、現国分地区を含む一帯に比定される。正平二四年(一三六九)の壱岐神領図(壱岐史拾遺)に国分の天満宮領として六四町とあり、山信やまのぶ村、黒崎くろさき村・半成はんせい村・牛方うしかた郷・大浦おおうら(現郷ノ浦町)布気ふけ(現勝本町)、大武庄・満津みつ(現未詳)の八ヵ所が記される。「海東諸国紀」では壱岐七郷の一つとして「古仇音夫郷」とみえ、肥前上松浦塩津留かみまつらしおづる(現佐賀県鎮西町)の助次郎(源経)が当地の主で、睿宗元年(一四六九)図書を受け、歳遣船は一、二艘となっており、朝鮮王朝との交易を行っていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報