上小川村
かみこがわむら
[現在地名]国分市上小川・中央一―四丁目・同六丁目・名波町・山下町・城山町・福島三丁目
現国分市域の西部、国分平野の中央部から東部に位置し、北は清水村、北西は府中村・向花村・新町村、東は川原村。「かんこがわ」ともよみ(寛文四年郡村高辻帳)、上小河とも書いた。中世は小河院、近世は国分郷に属した。慶長三年(一五九八)家督を島津家久に譲った島津義久は、同九年に村北東部城山(隼人城が築かれていた)の西麓に築いた舞鶴城に移っている。近世の国分郷の麓はこの舞鶴城の南西側に形成され、麓の南部には野町である唐仁町・本町の町場が発達していた。正長二年(一四二九)一〇月二五日の伊季上小河里山野境内注文(旧記雑録)は、応永年間(一三九四―一四二八)に大隅守護(奥州家島津氏)方とこの頃当地を領していた山城守(総州家島津忠朝または禰寝清平のいずれかか)方との双方から検使を派遣し、「上小河おとな」とともに実検し、これに基づいて作成されたものである。同注文によると当時の上小川の四至は北は隼人城の北端から毛梨子野の城にかけて、北東は芦谷から梅谷にかけて、北西は弟子丸名、西は隼人城の西端、南は久満崎峰(久満崎神社東方の峰)から前の鳥居にかけてであった。梅谷・久満崎は現在の上小川に、芦谷・毛梨子野は現在の川原に小字があり、中世の上小川(村)は近世の上小川村の領域に一部川原村の領域も加わっていたと思われる。また上小河老名として、「にい田のひやうへ三郎・おちミのけんつう・江口検校・わきのそのゝ数ゑもん・なハの太郎ひやうへ・その田道性」の名がみえる。にい田は当地の新田、なハは同名波、その田は同薗田の各小字にあたると思われる。このほか地内の車田(上車田・中車田)・武元(前武元)などの地名も中世の史料に散見する。
大隅国建久図田帳には小河院の国衙領のうちに執行建部清俊が知行する「武元二丁」がみえる。
上小川村
かみおがわむら
[現在地名]佐原市上小川
下総台地北端部、片野村の北西方向に連なる丘陵に集落が形成され、集落西方の大須賀川右岸の谷に耕地が広がる。元禄(一六八八―一七〇四)以前は小川村と称され、元禄郷帳の上小川村の村名に「古は小川村」の注記がある。ただしその後も小川村と記される場合があった。中世は大戸庄に属した。応永一二年(一四〇五)一二月二七日の道松譲状(観福寺文書)によると、「大戸庄南方小河村」内の田二町のうち三反が永胤の寄進どおりに「瑞雲寺住僧道松」から知足院へ渡されている。永胤は国分氏一族の大戸川氏の者であろうか。
上小川村
かみおがわむら
[現在地名]いわき市小川町上小川
南東流する夏井川左岸にあり、南は福岡村、東は柴原村。もとは現在の小川町全域を含んだ小川村のうちと思われる。磐城郡に属した。磐城平藩領から延享四年(一七四七)以降幕府領。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)に小川上之村とあり、高四七一石余。正保郷帳では田方三三四石余・畑方一三六石余。元禄郷帳では上小川村は高四八四石余、同村枝郷の片石田村は高二一九石余、細石新田高二九石余、高崎新田高二〇三石余、江田新田高九〇石余、横川新田高五〇石余、内倉新田高二四石余、戸渡新田高三三石余とある。
上小川村
かみおがわむら
[現在地名]安曇川町上小川
鴨村(現高島町)の北にあり、東は下小川村、西は西万木村。もと小川保のうち。寛永石高帳に村名がみえ高四四七石余、大溝藩領。慶安高辻帳では田方三九〇石余・畑方四三石余・永荒一三石余。大溝藩からは年貢のほかに夫役を命ぜられており、もとは二八人半で安永九年(一七八〇)より二五人となっている(高島郡誌)。江戸時代の陽明学者中江藤樹の出身地。
上小川村
かみおがわむら
[現在地名]瀬高町小川
堀池薗村の南、薩摩街道沿いにあり、同街道から東へ清水寺参詣道が分岐する。村名は上小河とも記され、中世の小河庄に由来するともいわれる。文明一六年(一四八四)一月一一日、田尻恒種は大友氏から「上小河」一二町を宛行われているが(「田原親宗知行預ケ状」田尻家文書/佐賀県史料集成七)、不知行であったらしい(年月日欠「田尻氏所領不知行分坪付」同上)。天文一九年(一五五〇)菊池義武に与同し没落した三池親員の所領で、田尻氏が恩賞で要求した知行地のうちに上小川・下小川二四町がみえる(年月日欠「三池氏等知行坪付」同上)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 