日本歴史地名大系 「国分村」の解説
国分村
こくぶむら
- 大阪府:柏原市
- 国分村
大和川が
産土神の国分神社のある
国分村
こくぶむら
慶長古高帳に国分とみえ高三八六余石、幕府領。ほかに国分寺領七石余・大明神領二石余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本松田・依田の二家がみえ、元禄郷帳では同じ二家領と国分寺領。宝永二年(一七〇五)甲府藩領、同七年から甲府新田藩(松平時睦)領となり(「柳沢刑部・式部少輔御知行付村」若尾資料)、享保九年(一七二四)幕府領石和代官支配。
国分村
こくぶむら
国分村
こくぶむら
国分村
こくぶむら
- 島根県:浜田市
- 国分村
国分村
こくぶむら
国分村
こくぶんむら
- 千葉県:市川市
- 国分村
谷津を隔てて国府台村の東に位置する。集落は台地(国分台)の縁辺部に発達し、その東側を真間川の支流国分川が南流する。古代には国分台に下総国分寺・同尼寺が置かれ、地名もこのことに由来する。当地は下総国守護千葉氏の庶子国分氏(初代は千葉常胤の子国分胤通)の本貫地とされる。国分氏は当初から香取郡をおもな拠点としていたが、千葉大系図によれば、胤通の子(大戸)親胤の子時通は「国分寺本主」であった。文永年間(一二六四―七五)香取社の殿遷宮に際して四面釘貫分は国分寺本役で、この作料官米六〇石を「地頭弥五郎時道女房」が負担している(香取文書)。
国分村
こくぶむら
- 石川県:七尾市
- 国分村
天正一〇年(一五八二)三月二五日の検地帳(国分区有文書)に「国分の分」とみえ、高四九町九反余、うち田方四〇町三反余・畑方七町九反余。
国分村
こくぶむら
国分村
こくぶむら
国分村
こくぶむら
現豊津町の中央部北西寄り、
国分村
こくぶむら
国分村
こくぶむら
国分村
こくぶむら
- 愛媛県:今治市
- 国分村
今治平野南部の村。もとは
国分村
こくぶむら
国分村
こくぶむら
日本海に面し伏木村の西に位置。西の村境は
国分村
こくぶむら
- 高知県:南国市
- 国分村
天正一六年(一五八八)の廿枝郷衙府中国分地検帳によると国分川より北の
国分村
こくぶむら
国分村
こくぶむら
- 福岡県:太宰府市
- 国分村
坂本村の西、
国分村
こくぶむら
天王寺村の東に接し、東と西がやや高台をなす。中心集落は西方の高台にあって現在天王寺区に属するが、村域の耕地の大半と、「摂津志」に属邑とされている字
国分村
こくぶむら
- 大阪府:和泉市
- 国分村
国分村
こくぶむら
- 京都府:亀岡市
- 国分村
当地は文永八年(一二七一)に延暦寺講堂改築の料所になり(天台座主記)、暦応二年(一三三九)には
国分村
こくぶむら
国分村
こくぶむら
- 福井県:小浜市
- 国分村
東は
江戸時代には遠敷組に属し、元禄三年(一六九〇)八月の国分村々高・家数・人数等記録帳(明通寺文書)によれば高四三二・四一七石でうち一六石余は畠高、家数五五軒、高持百姓四二人(うち一四人は公事人)、無高百姓一三人、人数は計二六四人(男一三六・女一二六・出家二)、牛二匹、馬一九匹。
国分村
こくぶむら
国分村
こくぶんむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報