国領村(読み)こくりようむら

日本歴史地名大系 「国領村」の解説

国領村
こくりようむら

[現在地名]真正町政田まさだ

政田村の西に位置し、根尾ねお川東岸の平坦低地に立地。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録(京都大学蔵古文書集)の美濃国の所領中に「新国領村」「新国領八 講田御戸代 二位局」とみえるが、当村との関連は不明。慶長郷帳に村名がみえ、高二〇八石余、加納藩領。加納藩家中知行渡方帳(森文書)によれば、慶長一七年(一六一二)から数年間は重臣坪内十良兵衛ほか六名の給地。

国領村
こくりようむら

[現在地名]伊勢崎市国領町

東は佐位さい小此木おこのぎ(現佐波郡境町)、南は前河原まえがわら(現境町)、西は下蓮沼しもはすぬま村。明治初年まで利根川に面した。元和三年(一六一七)徳川秀忠から松平忠政に「国領村」の知行宛行状が出されている(記録御用所本古文書)。寛永二年(一六二五)当村四〇〇石が松平孫太夫に与えられ(同文書)、以後近世を通して旗本松平領。寛文郷帳では田方二一一石余・畑方三七石余。

国領村
こくりようむら

[現在地名]前橋市国領町一―二丁目・若宮町わかみやちよう二―三丁目

前橋城下のむかい町の北に位置し、西ははぎ村、東は才川さいがわ村、北は北代田きたしろた村。元禄二年(一六八九)新田検地(古屋文書)に「岩神村之内国領跡之新田、其以後、寛文四辰年より天和三年亥年迄(中略)御検地水帳記置者也」とあり、もとは岩神いわがみ村のうちで、寛文四年(一六六四)以前に検地が行われていた。しかし寛文郷帳に村名は現れない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報