土呂市(読み)とろのいち

日本歴史地名大系 「土呂市」の解説

土呂市
とろのいち

[現在地名]岡崎市福岡町

土呂の中央を東西に通る中島なかじま道沿いに開設されていた。土呂郷は本宗ほんしゆう寺の門前町または寺内町として栄え、坊舎町屋一千二〇〇余宇を有したと伝える。町割を西八町にしはつちよう・東八町として現在の中心街よりも山手に位置していた。矢作川の水運を町近辺まで利用でき、寺と関連する消費人口などを考慮すると、一五世紀末より市が発展していたと考えられる。

永禄七年(一五六四)三河一向一揆鎮圧で、町は兵火で焼失し、本宗寺をはじめ末寺は転退して衰えた。一揆後、石川数正が土呂領主に就任し、町割を低地の現在地に移転させた。元亀二年(一五七一)家康により大道での三・八の六斎市が許可された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

4月1日の午前中に、罪のないうそをついて人をかついでも許されるという風習。また、4月1日のこと。あるいは、かつがれた人のこと。四月ばか。万愚節。《季 春》[補説]西洋もしくはインドに始まる風習で、日本...

エープリルフールの用語解説を読む