土呂村(読み)とろむら

日本歴史地名大系 「土呂村」の解説

土呂村
とろむら

[現在地名]岡崎市福岡ふくおか

応仁二年(一四六八)創建の浄土真宗土呂本宗ほんしゆう寺を中心にして発展した寺内町的性格をもった村。明和五年(一七六八)成稿の「土呂山畑今昔実録」には本宗寺を中心に「夫ニ続キ坊舎町千二百余宇有シヨリ、近郷ニテノ都タル故ニ、昔ハ土呂ヲ都路ト書キシ」と記す。さらに土呂の町割について「土呂ノ町割昔シ御坊地盛ン之時、今之町ヨリ上ニアリ。上地村マデ一ツニシテ、西ニ八町、東ニ八町、十六町有シ、(中略)大対屋・小対屋昔シ御坊地有ル時ハ多屋ト名付テ多数之寺本坊ヲ取回シ」とある。蓮如が御堂みどう山に道場を設立した以降でも、当村は船着の湊として海産物集散地でもあったと伝え、深溝ふこうず庄土呂郷一帯は西の矢作川、南の菱池ひしいけ沼を水運に利用していた。「土呂山畑今昔実録」は「御堂山東西二町ニシテ、南北ハ壱町余、西南北ハ高岸ニテ東方平地ナリ。西南北ノ三方ハ湖水渺々ト湛エ、白波腰ヲ巻キテ麓ニ数多之船ヲ繋ク」と記す。「都路」「土羅」とも記し、天文二年(一五三三)日付の分骨譲状(浄専寺文書)に「都路実証僧都」の宛名がある。大永三年(一五二三)の「宗長手記」に「土羅一向堂一日逗留」と記す。永禄七年(一五六四)三河一向一揆の一拠点土呂本宗寺破却の後は、石川数正によって土呂市の再建などが実施された。


土呂村
とろむら

[現在地名]大宮市土呂町・堀の内町ほりのうちちよう寿能町じゆのうちよう植竹町うえたけちよう盆栽町ぼんさいちよう大和田町おおわだちよう見沼みぬまなど

本郷ほんごう村の南に位置し、東寄りを南流する見沼代用水(砂村分水)を境に西は大宮台地上、東は見沼の沖積低地となっている。東部しば川が流れる。村の南部を大宮町から岩槻町への道、大宮町から越ヶ谷宿への道が通る。大宮領に属する(風土記稿)。田園簿では田一九石余・畑一七九石余で、幕府領(二〇石余)・旗本初鹿野領(一七八石)。初鹿野昌久は天正一九年(一五九一)に武蔵・下総両国で七〇〇石を与えられ、当村在家ざいけに陣屋を構え支配した。現在でも空堀や土塁などが一部残る。昌久と二代信吉は片柳かたやなぎ村の万年ばんねん寺に葬られたが、三代昌次は寛文一一年(一六七一)当村宅地に葬られたとされ(寛政重修諸家譜)、この頃までは陣屋があったと思われる。昌次は弟昌重に三〇〇石を分知しており(同書)、以後初鹿野両家の知行幕末まで伝えられた(寛政八年「足立郡村々高辻帳」都築家文書、改革組合取調書など)。寛文元年幕府領の地が旗本伏見氏に与えられたと考えられ、同氏の知行も幕末まで伝えられた(前掲諸家譜・国立史料館本元禄郷帳など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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