デジタル大辞泉
「伝馬町」の意味・読み・例文・類語
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てんま‐ちょう‥チャウ【伝馬町】
- [ 1 ] ( 江戸時代、伝馬役あるいは伝馬を業とする者が住んでいたところから ) 東京都中央区日本橋の地名。小伝馬町と大伝馬町に分かれる。江戸屈指の問屋街であった。また、小伝馬町には牢屋敷が置かれていた。
- [ 2 ] ( [ 一 ]に牢屋があったところから ) 牢屋の異称。
- [初出の実例]「朝帰り座しきへ伝馬丁ができ」(出典:雑俳・柳多留‐二二(1788))
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
伝馬町
てんままち
[現在地名]彦根市中央町
蓮華寺前町などの西にある両側町で、裏町を伴う。西は内大工町。朝鮮人街道の宿駅を担った町で、一部武家地を含む。高札場が置かれ、宿駅は朝鮮通信使一行の休泊所に充てられた。城下建設以前の住人という外村三郎兵衛の祖は善利村で大領(大庄屋)をしていたと伝え、当町では石臼屋を営んでいた(「彦根町地割事」長谷川文書)。寛文五年(一六六五)の改帳(伝馬町文書)によれば家主四一・借家人六三で、その出身構成は家主の場合、当町内三一、城下内町および犬上郡・坂田郡各二、他国三など、借家人では坂田郡一九・城下外町六・他国五など。切支丹改五人組帳(同文書)による元禄八年―明治三年(一六九五―一八七〇)間の家数は四六軒から三七軒まで減少し、人数は元禄八年の四四二人を最多とし、以降やはり減少をみ、文化四年(一八〇七)には三〇〇人を割り、文久三年(一八六三)には二〇五人まで落込んでいる。同史料からは本家・借家別に家数・男女別数・下男下女数の推移も知ることができる。家屋敷の規模・分布は町絵図(寛政期か)・家屋敷売買覚・売券留帳(彦根市史)などにより寛永一二年(一六三五)から明治初年までうかがえ、屋敷の奥行はほぼ一三間に統一され、間口は一三―二間の規模がみられ、三間以下は半軒役、三―六間は一軒役、六―九間は一軒半役、九―一二間は二軒役と町役が課せられていたらしい。
伝馬町
てんまちよう
[現在地名]中区錦一―二丁目
伝馬橋から東へ奥田町(現新栄三丁目)に至る東西道路の伝馬町筋西端に位置する。木挽町筋と七間町筋との間の八丁、ほかに七間町筋から伊勢町筋と大津町筋との中間北側の二丁半を含む(町名起因並町家由緒)。伝馬町の西部は緩い坂を下って堀川東の木挽町筋葭町に出、伝馬橋を渡ると西岸船入町(現中村区)となる。当町の東は宮町に接する(府城志)。清須越しの町だが、移転時期は不詳(尾張城南陌名由緒)。一説に慶長一五年(一六一〇)ともいう(尾張志)。清須時代以来、伝馬役を勤めたところから町号を生じた。桑名町筋以西は泥江県神社の山林で、築城の際、ここで天守の瓦を焼いたので瓦町とよばれた。
伝馬町
でんまちよう
[現在地名]宇都宮市伝馬町・泉町・小幡一丁目
日光街道と奥州街道の分岐点に位置し、北は小伝馬町と日光街道筋の本郷町、東は奥州街道筋の池上町、南は武家屋敷地の三ノ筋、西は新石町。東西に続く町人町。てんまちょうとも発音する。近世初めは池上町の内であった。元和五年(一六一九)これまで東石町(元石町)で勤めていた伝馬継立所が池上町内に移され、のちの小伝馬町を加えて馬四七匹が常備されるようになった(宇都宮史)。寛永一一年(一六三四)宇都宮宿は馬一〇〇匹・人足五〇〇人が常備されるようになり、伝馬町と改称されたという(宇都宮故実抄)。また元和六年には日光街道が新設されたため、奥州・日光両街道の分岐点として宇都宮宿の中心となった。正徳三年(一七一三)道中奉行に出願し、伝馬役を宇都宮惣町中で勤めるようになった(宇都宮史)。
宝永七年(一七一〇)の町分掃除丁場は二番組一一七間半のうち五一間を受持ち、城内草刈人足は一二人と宰領一人を出した(宇都宮史)。
伝馬町
てんまちよう
[現在地名]岡崎市伝馬通一―五丁目
岡崎城外堀東に東西に通じ、東海道岡崎宿往還筋の町。東は両町、西は岡崎城外郭東の口籠田総門に続く。町の長さ七町八間・幅四間。伝馬の問屋が置かれ、高札場があり、二軒の本陣と旅籠屋が軒を並べ、江戸時代大小名参勤交代をはじめ人馬の往来がしげく、岡崎宿街で最も殷盛の地であった。「東海道名所図会」に「岡崎ハ当国都会の地にして賈人多く万の物たらずといふ事なし、仙方延寿の良薬を求め、あるは岡崎女郎衆と小歌にも諷へばこゝに泊し不老の媒とするもみな旅の風流とやいふべき」とあるのは、この町をさしていったものであろう。慶長五年(一六〇〇)に東海道が菅生川南岸から城下に移された頃に、この町もできたものであろう。町年寄控帳(岡崎市史)に「慶長十三申年迄御伝馬継所榎町に在り、同十四酉年伝馬町え移る」とあるように、榎町(現在の祐金町の辺り)から人馬会所が伝馬町に移され、それ以来伝馬町と称したという。
伝馬町
てんまちよう
[現在地名]大垣市伝馬町・藤江町など
大垣城の北東に位置し、南西の本町北端の名古屋口門を経て、東に続く美濃路の町家両側町。天正期(一五七三―九二)に成立したと推定され、古来町の一つ。町名は美濃路の伝馬会所が初めて置かれたことによる(新修大垣市史)。町域は、慶長五年(一六〇〇)以前は本町・中町の北の柳原より実相寺まで、寛永三年(一六二六)実相寺より東の藤江村境まで拡大、同一四年北西の高屋村の一部が町家となり、伝馬町北町(のちの岐阜町)と称したという(同書)。寛永城下絵図に伝馬町通とみえ、享和元年(一八〇一)の往還の長さ三町二間余(大垣市史)。
伝馬町
てんままち
[現在地名]熱田区伝馬町
熱田神宮の東南にある。宮宿のうち。西の源太夫社(上知我麻神社)から東の裁断橋まで、南で二三九間、北で二三一間半。往昔は宿と今道といっていたが、慶長年中(一五九六―一六一五)より二町ともに伝馬役を勤めたので伝馬町と改称した。宿は笠覆寺(現南区)蔵の文明一一年(一四七九)の売券に「あつたの宮 宿之又四郎」とみえ、今道は猿投神社本「本朝文粋」巻二紙背文書に「神戸郷内今村禅祐房琳慶跡、祖父祝師頼仲伝領正住名畠壱段大」とみえる今村のことであろう。この文書は鎌倉後期のものである。
今道は往古は葭野で、人家が少しあるのみであったが、永禄年中(一五五八―七〇)より人家が多くなり、町並から南へ一間二尺の新道を作った。
伝馬町
てんまちよう
[現在地名]桑名市伝馬町
新町の南にあり、東海道筋の南北一条、「町長二町四拾間四尺余幅三間五尺」(久波奈名所図会)の町屋敷地。西・南・北の三方は城下の外郭堀に面し、土塁がめぐり、南には七曲御門(釘貫門)と見付番所がある。北部を伝馬町、南部を伝馬末町と分称する。
慶長の町割に際し伝馬年寄丹羽藤九郎が居住、「桑名志」に「御朱印ヲ賜リ宅地免除ナリ、又此辺伝馬持ノ者多ク住ス、因テ町名トナリシナルヘシ」とある。町割以前は泡州崎と本願寺村の地であったと思われ、「久波奈名所図会」には「当町十念寺より北は泡州八幡を産沙神とし同より南は天武天皇を氏神とす」とある。
伝馬町
てんままち
[現在地名]酒田市中町三丁目・日吉町二丁目
秋田町の北に延びる浜街道沿いの両側町で、北は今町まで。慶長一七年(一六一二)より明暦二年(一六五六)までの間に成立したと伝える。最上氏時代から宿場町として公用人馬継立が行われた。のち三十六人衆の飼馬の権利を取上げて馬を当町に集め、伝馬の用に供したという。駅馬・旅人宿が家並をつくり、明暦二年の酒田町絵図(大泉叢誌)では長さ八四間・屋敷三三軒。天和三年(一六八三)の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)によると町域は二町、家数六六・人数三五五。元禄一〇年(一六九七)の亀ヶ崎城下大絵図では町の長さ八〇間余・幅四間余。
伝馬町
てんままち
[現在地名]浜松市伝馬町・鍛冶町・旭町・千歳町・旅籠町
連尺町の南、南北に通る東海道に沿う。西に並行して利町・大工町が延び、町東側に鍛冶町が直交する(井上氏時代城下絵図など)。城下の中心地にあたり、御役町六町の一。古くは十王町と称して二、三〇軒の家があったといい、天文二二年(一五五三)杉浦助右衛門の先祖が伝馬役を勤めたという。慶長六年(一六〇一)宿駅指定の際に伝馬町に改称したといわれる。問屋役は助右衛門、伝馬役は三二軒が勤めた。
伝馬町
てんまちよう
[現在地名]東区北久宝寺町四丁目
北久宝寺町通の両側町。北久宝寺町四丁目の西に続き、丼池筋より心斎橋筋少し西までの間で、馬屋町ともいった(天保町鑑)。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図に町名がみえるが、これ以前は西の源左衛門町の一部も町域に含んでいた(初発言上候帳面写)。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数三〇・役数四一役で、年寄の塩屋助三郎は他町住居。安政三年(一八五六)には屋敷数二八・役数四一役(同年「水帳」大阪市立中央図書館蔵)。当町には馬持が多く住んだ。大坂の駄賃馬の数は元禄頃には四四八匹で、馬持は当町のほか八軒家・源左衛門町・博労町、長町(現南区・浪速区)・相生町(現都島区)に住んだが、とくに当町は全町馬持で常に役馬を出したので、公役免除であった(大阪市史)。
伝馬町
てんまちよう
[現在地名]静岡市伝馬町・御幸町
駿府城の南方に位置し、東海道府中宿の中心をなす。北西の新谷町寄りの上伝馬町と、南東の華陽院門前町寄りの下伝馬町に区画される。西側の町裏に浄土宗法伝寺・新光明寺がある(以上、町方絵図)。和泉屋平左衛門宅は四足加番(二加番)交替時の宿舎(駿府広益)。天明八年(一七八八)府中宿本陣長五郎店の座頭祝栄娘まきは孝女として賞された(駿河国志)。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は上伝馬町・下伝馬町で丁頭家三・本家九七・借家五八。
伝馬町
てんまちよう
[現在地名]飯田市伝馬町一丁目・二丁目
飯田の段丘を南北に二分する谷川の北岸に位置する。堀端を北に進んで谷川を渡り、西へ走る坂道の町筋。
文禄三年(一五九四)に創建され、初めは名残町とよばれていた。元和年中(一六一五―二四)より江戸付出しの伝馬の賦役を勤めるようになり、正保二年(一六四五)に伝馬町と改められた。
伝馬町
てんまちよう
[現在地名]三島市大社町
三島町のほぼ中央に位置する町で、東は長谷町。三嶋明神(三嶋大社)に近く、明神の南東側から南側にかけての東海道を挟んだ町並。三島宿成立当初からの中心的な町。寛文四年(一六六四)の三島代官伊奈忠公掟書写(世古家文書)に町名がみえ、三島宿の伝馬役を最初に負担した。貞享五年(一六八八)の家数四八(家持四〇・借屋八)、町の長さ一五七間(三島町外万覚帳)。慶応三年(一八六七)には高九六石余、家数八五(本家六〇・店借二五)・人数三五〇(「宗門人別取調書」三島市誌)。
伝馬町
てんまちよう
[現在地名]福井市順化二丁目
東は大黒町に続き、北は魚町、南は米町。町名は慶長六年(一六〇一)結城(現茨城県結城市)より引越した伝馬問屋一六軒に由来する。「越前国名蹟考」は「福井庄町」として「駅馬三十二疋内役馬二十五疋」と記す。福井における伝馬問屋は、初め石場町・伝馬町・松本竪町が一月のうち一〇日間ずつ分担したが、江戸中期以降、定問屋を他の二町に譲り、当町は中問屋と称して、人足だけを取扱った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
伝馬町 (てんまちょう)
近世の城下町において,幕府あるいは大名の命ずる交通,通信のことに従う伝馬役を負担した町で,おおむね大手前付近に位置した。江戸の場合,日本橋近くに三伝馬町があった。江戸府内から五街道にかかる人足,伝馬の継立てを幕府の命により行うという道中伝馬役を負担した大伝馬町および南伝馬町,江戸府内限りの公用の交通,通信に従う江戸廻り伝馬役を負担した小伝馬町である。ほかに大伝馬町と南伝馬町に付属する町として1638年(寛永15)に起立した四谷伝馬町と赤坂伝馬町があった。三伝馬町は,名主役を兼ねた伝馬役人として江戸町名主の筆頭に位置した佐久間善八,馬込勘解由(大伝馬町),吉沢主計,高野新右衛門,小宮善右衛門(南伝馬町),宮辺又四郎(小伝馬町)により世襲支配されていた。高野,小宮,宮辺氏は江戸城下在地の,佐久間,馬込,吉沢氏は徳川氏旧領地のそれぞれ有力者で,徳川氏の江戸入部(1590)とほぼ同時に伝馬役のことに従うようになったという。伝馬役の実際はそれぞれの町を構成する地主,家持の屋敷の間口数に応じた出費をもとに,名主の居宅を伝馬役所として運営された。1744年(延享1)の史料によれば,この年に大伝馬町と南伝馬町の負担した人足は延べ1万4089人,伝馬は延べ8092疋,支出は1932両余に及んでいる。伝馬町内の地主,家持の負担は他の役負担の町のそれに比して過重であり,〈継飛脚給米〉の給与,四谷伝馬町,赤坂伝馬町の開設,江戸近在百姓馬の伝馬町への助役,拝借金などの助成制度が設けられていた。他方,これら伝馬町地域は大伝馬町の伊勢店に代表される繁華な商業地域ともなっていた。一般に伝馬を負担する町や,湊や川筋の町が塩や穀物などの特定商品の専売権を与えられた例が多い。交通業への関与が,商業地域としての発展に大きな影響があったことは確かであろう。
執筆者:松崎 欣一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
伝馬町【てんまちょう】
近世の城下町において,幕府・大名の命ずる交通・通信業務に従う伝馬役を負担した町。江戸の場合,江戸府内から五街道にかかる人足・伝馬の継立てを負担した大伝馬(おおでんま)町・南伝馬町,江戸府内限りの公用の交通・通信に従う小伝馬町の三伝馬町があった。三伝馬町の伝馬役人は名主役を兼ね,世襲された。伝馬役はそれぞれの町を構成する地主,家持の屋敷の間口数に応じて出費,それをもとに運営された。伝馬町の地主,家持の負担は他の役負担の町に比べ過重であったため,さまざまな助成制度が設けられていた。伝馬町は交通業に関与することによって商業地域としても発展した。なお1638年,大伝馬町・南伝馬町に付属する町として,四谷伝馬町と赤坂伝馬町が起立されている。
→関連項目継飛脚
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伝馬町
てんまちょう
近世城下町において伝馬役を負担する町。町人地の中心にあって,最も格式が高いものとされた。江戸では日本橋付近に大伝馬町・南伝馬町・小伝馬町の3町があり,前二者は江戸から五街道への伝馬人足の継立てを行い,小伝馬町は江戸府内の公用交通・通信に従事した。これらの役の代償として,他の宿駅と同様に,継飛脚給米の下付,江戸近在百姓馬の助役,拝借金などの助成策がとられた。一般に伝馬町には特定商品の専売権が付与されることが多く,江戸の大伝馬町1丁目には木綿問屋が軒を連ねた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の伝馬町の言及
【宿場町】より
…宿場は従来の集落を基盤にしたものが多いが,新しく近隣から集めて形成した場合もあったので,一宿が行政上では数ヵ村にわたり,あるいは2郡にまたがることもあった。また城下町の場合は,宿に該当するのはその一部分であることが多く,[伝馬町]と呼ばれた区域がそれに相当した。 宿の長を古くは長者といったが,江戸時代には問屋といい,1名または2名ぐらいいて,人馬の継立てや休泊に関する業務をつかさどった。…
【大八車】より
…1815年(文化12)の芝車町名主の書上によれば,明暦の大火(1657)後江戸市中に普請多く,そのため木挽町辺に居住の牛車大工が初めて製造して以来流行し,現在では京,大坂その他諸国城下町でも使用されるようになったという。大八車の発達は馬や牛車の荷を奪うことになり,江戸[伝馬町]に役勤めする馬持ちを困窮させた。1700‐03年(元禄13‐16)には,伝馬町助成のために大八車に伝馬町で極印を押し極印賃を徴することが行われた。…
※「伝馬町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」