日本歴史地名大系 「地行町」の解説 地行町じぎようまち 福岡県:福岡市中央区福岡城下地行町[現在地名]中央区地行一―四丁目・今川(いまがわ)一―二丁目北流する菰(こも)川の西岸に位置し、北は博多湾に臨む。地形とも書く。福岡博多近隣古図では足軽屋敷が集中する下級武士の武家町で、菰川に架かる古簗(ふるやな)橋と「米出橋」(米田橋の誤記か)のそれぞれの西のたもとは西(にし)町の内とあるが、古簗橋から西に延びる通りは「地形下町」で、米出橋から西に延びる通りを挟んで、東から西にかけて地形一番町から地形八番町まで南北の通りが八本直交する。菰川は「続風土記拾遺」の早良(さわら)郡鳥飼(とりかい)村の項に「薦川」と記され、「田水の落合の小流なり」とある。「伊能忠敬測量日記」文化九年(一八一二)八月七日条には「簗橋川」とみえる。古簗橋・米田(よねだ)橋および地行の川端辺りの景観は「筑前名所図会」でうかがうことができる。当町の北に鳥飼松原がある。前掲古図では菰川の河口西側に「鳥飼松原 慶安年中より屋敷トナル」、河口東側に「鳥飼松原 唐人丁より北ノ地ハ皆松原也、寛永二十年より諸士ノ宅トナル」と記され、海浜に沿って畠が広がっている。元和四年(一六一八)福岡藩主初代黒田長政は荒戸(あらと)の西の町外れから早良川(現室見川)の遠干潟の砂原にかけて、福岡・博多両市中および姪浜(めいのはま)(現西区)の町人に命じ家一軒につき高さ四、五尺ほどの小松を各一本植林させた(新訂黒田家譜)。当町の開発もこの一環であろうか。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by