デジタル大辞泉
「唐人町」の意味・読み・例文・類語
とうじん‐まち〔タウジン‐〕【唐人町】
江戸時代、中国人が集団居住していた町。長崎・博多などが有名。
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唐人町
とうじんまち
[現在地名]中央区唐人町一丁目・同三丁目・黒門
荒戸通町西端の黒門の西、簗堀(唐人町口堀)に架かる橋(黒門橋)を挟んで東西に延びる通りの両側町。商人町である(「福岡城下屋敷図」県立図書館蔵大田資料)。西端は真宗東派善龍寺(現単立)に突き当り、同寺の北に浄土宗鎮西派浄道寺(現浄土宗成道寺)がある。西部にある南北の通りは唐人町横町と称され、菰川に架かる古簗橋を渡って地行下町に至る。簗堀沿いの通りは「御堀端」と記され、西側に片側町を形成している(以上、福岡博多近隣古図など)。町名は初め高麗人が居住していたことにちなむという(続風土記)。「筑陽記」は文禄・慶長の役の際の捕虜をこの地に居住させたとし、「続風土記拾遺」は唐船の停泊する地であったという古老の話を記し、町名由来には諸説がある。当町の小名のうちにみえる舩賃町は、かつて草香江を往来する時にここで船賃を払ったことにちなむ地名という(続風土記拾遺)。「続風土記」は当町および新大工町・西町を「城の西郭の外」にある町としている。黒門は呉門ともいい(続風土記拾遺)、城下東端の橋口町の枡形門に対する狭義の福岡城下の西の出入口で、黒門橋(唐人町橋)は中島東橋・中島西橋・石堂橋とともに福岡・博多の両市中往還橋四ヵ所の一つである(「福岡藩御用帳」天明六年七月一〇日条)。
唐人町
とうじんまち
[現在地名]都城市中町
本町の北にある。天正年間(一五七三―九二)、明末の戦乱を避けて多くの明人が北郷氏領の内之浦(現鹿児島県内之浦町)に漂着した。これらの明人たちは北郷時久の居城安永城下の諏訪社馬場付近に移されて、唐人町が建設された。文禄四年(一五九五)北郷時久が薩摩国答院に移封されると、唐人町も答院城下に移され、慶長五年(一六〇〇)北郷忠能(時久孫)が都城へ復したとき再び都城へ帰り、答院から宮丸村に勧請された湯田八幡の鳥居付近(現八幡町)、宮丸村と下長飯村境に唐人町が設営された。その頃は毎年九月二五日の同八幡祭礼の流鏑馬の中間として唐人町も参加していたという。
唐人町
とうじんまち
[現在地名]高知市唐人町・南はりまや町二丁目
鏡川沿い、城下を囲む堤防の外にある。東西に長い片側町で、西は山内邸のある徳ヶ越戸、東は弘岡町南側に並行する雑喉場。東唐人町・西唐人町の二町に分けて称する場合もあった(高知市沿革略志)。江戸時代中期の「高知風土記」によると東西六〇〇間、南北一〇間、家数一七〇。
文禄の役ののち長宗我部元親に従って土佐に来住した朝鮮慶尚道の秋月城主朴好仁ら三〇人が、山内氏入国直後に浦戸よりこの地に移り、形成した町である。このとき好仁は表口八間、裏行八間半の屋敷を拝領、慶長六年(一六〇一)二月二日付で藩主山内一豊より町役を免除されている(南路志)。
唐人町
とうじんまち
[現在地名]松山市三番町一―二丁目
松山城下町の外側地区における町人町の中心で、東は持田村に接し右折して讃岐道に通じ、西は小唐人町に直角に交差して武家町の三番町に続く。南は北夷子町・北八坂町および中村に、北は南京町および持田村に接する。町名の由来については、加藤嘉明が慶長の役に彼の地から連れ帰った朝鮮人を居住させたという伝承がある。初見は、寛永四年(一六二七)の松山古城絵図(滋賀県水口図書館蔵)に「唐人町」とある。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の「外巡町弐拾三町」のなかに大唐人一丁目・同中之町・同上之町、「水呑町拾八町」のなかに大唐人末新立町の名がみえる。
唐人町
とうじんまち
[現在地名]臼杵市臼杵 唐人町
臼杵川の河口右岸、掛町の東に位置し、北は幅一五間の船入り堀を介して臼杵城三の丸の祇園洲に対する。東は大手口。東西に長さ一町一三間の通りを挟んで両側に町屋敷があるが、大手口近くは五四間の片側町となる。東端の屋敷地には物産会所(産物役所)が置かれ、掛町からの入口と東の両側町の入口には木戸が設けられていた(幕末頃「臼杵城下絵図」臼杵図書館蔵)。町名は元明・三官という二人の渡来人(明人)が居住したことに由来するという(「臼杵博識誌」臼杵藩政史料)。
唐人町
とうじんちよう
[現在地名]小田原市浜町一丁目・同三丁目
大手門より東へ通ずる大手小路に続き、一丁田町の東南に位置し、東北で新宿町に接する。「風土記稿」は、「北条記」の記す永禄九年(一五六六)三崎浦(現三浦市)に着船した唐人のうち、帰国しなかった者が「小田原に居住。町屋を給り商人と成」という地とする。「慶七松海槎録」(海行載)は、慶長一一年(一六〇六)筋違橋町大蓮寺に宿泊した朝鮮通信副使のもとを訪ねた中国福建出身の葉七官の話として、明の嘉靖年間(一五二二―六六)五〇余人が小田原に漂着、三〇余人は帰国したが、一〇余人は当地に住み、「倭人名其所住之処曰唐人村」と伝え、この唐人村が当町にあたるかと思われる。
唐人町
とうじんまち
[現在地名]佐賀市唐人一―二丁目
現存する城下絵図では寛永三年(一六二六)までは記載がなく、正保年間(一六四四―四八)の絵図からその記載がある。佐賀城下の郭外に、白山町から北に出て外堀的な役割を果している十間堀川を土橋(当初)で渡って、北へ真っすぐに延びる町。佐賀城下の中央から北へ突き出したこの町の名は、日本にやってきた朝鮮人の居住地に由来する。
唐人町
とうじんまち
[現在地名]大分市府内町一丁目
鍛冶屋町の通りの一筋南の通りを挟む町で、北は檜物町、東は拾間堀に架かる橋で町組千手堂町の小物座町。南の外堀沿いの町並は西の名号小路町と一続き。慶長府内絵図に町名がみえ、北頬六一間・南頬六三間、南北の入一五間。享保七年(一七二二)営業を許可された計屋一軒があった(府内藩日記)。町郷中酒造米高寄帳(府内藩記録)によると酒造業者が一軒あり、酒造米高は延宝七年(一六七九)一五石、元禄一〇年(一六九七)二三石四斗、正徳五年(一七一五)七石八斗であった。
唐人町
とうじんまち
[現在地名]中区土橋町
西土手町南側の小路の小町で、「知新集」に「往古バンセイといふ唐人住ける故よへりともいひ、又寛永十七年案紙帖に一宦といふ唐人作りもの細工なとし御扶持方を賜ハり当地に久しく逗留せるよし見ゆれバ、この一宦なとこのところに住けるよりよへるにもあらんか」とある。一説に福島正則がキリスト教を容認し、対外貿易を重視したため貿易に関係した外国人が居住した地であったかともいう(新修広島市史)。
唐人町
とうじんまち
[現在地名]福江市福江町
福江城の北西にある。天文九年(一五四〇)明の王直が深江(福江)に来航して通商を求めたのに対して、宇久盛定がその居住地として与えた地であるという。寛永一一年(一六三四)の福江直りに伴い町割が行われた町の一つで、同年の屋敷数三(五島編年史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
唐人町
とうじんまち
中世から近世にかけての中国人・朝鮮人の集住地。唐には蕃坊や新羅坊という外国人居留地があったが、日本でも平安後期の博多に、中国系海商が住む唐坊があった。筑前の宗像(むなかた)や薩摩の加世田(かせだ)など九州沿岸に残る唐房・当房(とうぼう)の地名も、中国人の居留に由来するという説もある。後期倭寇を経て明の海禁が緩む戦国時代以降、中国人の来航・移住が盛んになると、薩摩の久志(くし)、大隈の串良(くしら)や根占(ねじめ)、肥前口之津(くちのつ)、肥後伊倉(いくら)などの港町に唐人町が成立した。豊後府内、臼杵、熊本、都城、大隈の高山(こうやま)など、城下町や陣屋町に中国系商人を集めて唐人町を立てた場合もある。また、佐賀や肥後人吉などのように文禄・慶長の役で捕虜となった朝鮮人の居住地を、唐人町と呼ぶ例もあった。これらの唐人町には日本人も混住し、両者の交流も制限がなかった。なお、鹿児島、平戸、長崎など、唐人町がなく、外国人は市中に散居している海港都市もあった。江戸幕府が外国商船の入港を長崎1港に限定したことや、子孫の日本人化が進んでいったことで、各地の唐人町はしだいに実体を失っていった。
[藤田明良]
『福岡ユネスコ協会編『九州文化論集2』(1973・平凡社)』▽『大庭康時・佐伯弘次・菅波正人・田上勇一郎編『中世都市・博多を掘る』(2008・海鳥社)』
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唐人町
とうじんまち
江戸時代,日本に住みついた中国人の集団居住地。明末~清初 (16~17世紀初め) の中国の商人や難民が多く日本に来航し,筑前博多,肥前平戸,唐津,肥後熊本,豊後府内,日向都城,相模小田原などに居住した。特に長崎には多く,鎖国後唐人の居住はここに限られ,雑居がたてまえであったが,元禄1 (1688) 年唐人屋敷が設けられ,ここに収容された。また肥前唐津のように朝鮮人居住地を唐人町と称した例もある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
唐人町
とうじんまち
戦国時代から江戸初期にかけ来日帰化した中国人の集団居住地区
豊後府内(大分)・都城・熊本・平戸・唐津・博多・小田原などにあった。鎖国後は新来者がなく同化し,自然消滅して,地名のみ残った。朝鮮人の居住地をいうところもある。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報