埴生郡(読み)はぶぐん

日本歴史地名大系 「埴生郡」の解説

埴生郡
はぶぐん

下総国の北部やや東寄りに置かれた古代以来の郡。西から南にかけては印旛いんば郡、東は香取郡と接し、南東は上総国武射むしや郡、北は常陸国。郡名に異表記はない。「和名抄」東急本などでは波牟布の訓を付し、「和名抄」名博本や「延喜式」民部省ではハニフと訓じ、「拾芥抄」でも同様であるが、天文一〇年(一五四一)九月六日の下総十一郡之次第(香取文書)ではハブとしている。「寛政重修諸家譜」では「はふ」とする。古代の郡域は明らかでないが、江戸時代は現成田市・印旛郡さかえ町および茨城県河内かわち村にわたっていた。

〔古代〕

弥生時代中期後半に現成田市南羽鳥谷津堀みなみはどりやつぼり遺跡やタダメキ第二遺跡など南関東系の土器をもつ集落が形成されるが、後期には同市長田和田ながたわだ遺跡など北関東系土器を主体とする集落が多くなり、両者は錯綜する。古墳時代には前期に成田市大竹玉作おおだけたまつくり遺跡・外小台そとこだい遺跡などの玉作遺跡が出現するが、この時期の古墳はあまり確認されておらず、郡域で古墳が多く築造されてくるのは五世紀に入ってからである。うち龍角寺りゆうかくじ古墳群(一一二基、成田市・栄町)公津原こうづはら古墳群(一一六基、成田市)は印波国造を考えるうえで重要な古墳群であり、なかでも龍角寺古墳群の岩屋いわや古墳は一辺約八〇メートルの七世紀前半の方墳で、この頃の方墳としては畿内の天皇陵を上回る日本最大の規模である。同古墳の北西約一・六キロには山田寺式の瓦をもつ七世紀後半の創建という龍角寺(現栄町)があり、両者の密接な関連が想定されることから、岩屋古墳の被葬者は蘇我氏と関係する人物とみる見解がある。龍角寺からは「朝布」「服止」「加刀利」などの篦書文字瓦が出土し、同寺の瓦を製作した五斗蒔ごとまき遺跡(栄町)瓦窯跡からも「玉作」「水津」などの文字瓦が発見されている。これらは「和名抄」に記す埴生郡麻在あさり郷・酢取すとり郷・玉作郷との関連から当時の里名と考えられ、龍角寺の造営に関与していたことが想定されるとともに、同寺創建の七世紀後半に評里制が設定されていたことがうかがえる。隣接する大畑おおはたI遺跡は埴生郡家跡と推定されており、「玉作」の文字瓦が出土している。

平城京(二条大路)跡出土木簡に左兵衛下総国埴生郡大生直野とみえ、上養布一〇段を貢納していた。天平勝宝七年(七五五)には筑紫国に赴いていた防人に埴生郡大伴部麻与佐がおり、「天地のいづれの神を祈らば愛し母にまた言問はむ」と詠んでいる(「万葉集」巻二〇)

埴生郡
はぶぐん

上総国の東部に置かれた古代以来の郡。北より東にかけては長柄ながら郡と接し、南は夷隅いすみ郡、西は海上うなかみ郡。「和名抄」名博本ではハニフの訓を付す。郡名に異表記はない。「延喜式」神名帳・「和名抄」名博本および「拾芥抄」ではハニフであるが、「寛政重修諸家譜」では「はふ」としており、下総国埴生郡と同じく一六世紀半ばまでにはハフと読むようになっていたのかもしれない。江戸時代の郡域は現長生ちようせい睦沢むつざわ町・長南ちようなん町および茂原もばら市にわたっていた。

〔古代〕

「和名抄」によれば埴生はにゆう郷・埴石はにし郷・小田おだ郷・坂本さかもと郷・横栗よこくり郷・河家かわいえ郷の計六郷が置かれており、「養老令」戸令定郡条の規定では下郡に相当する。埴生郡坂本郷の遺称地は現長南町坂本と考えられ、長柄郡車持くるまもち郷はその西の蔵持くらもち(現長南町)に比定されるので、この間が両郡境であったことが知られる。「延喜式」神名帳に埴生郡一座小として「玉前タマサキ神社」が記載され、名神大社に列しており、現一宮いちのみや町の同名社に比定されている。貞観一〇年(八六八)従四位下になり(「三代実録」七月二七日条)、元慶八年(八八四)には正四位上に昇格しているが(同書同年七月一五日条)、平安末には上総国一宮と称されていた。この鎮座地は江戸時代の長柄郡域であることから、埴生郡は古代の郡域が狭まったことが知られるが、その時期は未詳であるものの、玉前たまさき神社とその神領が所領単位となる一二世紀に令制下の郡の解体があり、玉前庄(のちの一宮庄、現一宮町)が成立したことによるものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報