基肄郡
きぐん
肥前国東限の小郡で、「きい」ともよむ。現三養基郡基山町全域と鳥栖市成立前の田代町・基里村を併せた地域が郡域である。北は大宰府所在地の筑前国御笠郡、東から南・西にかけて筑後国御原郡・御井郡・肥前国養父郡に接する。郡の北部は背振山地東部の山地、南部は筑後川の支流が流れる沖積平野、中間部に洪積丘陵が北部山地の麓に続く。境界は北は山の稜線、東は平野部の古代条里の基線でほぼ直線状をなし、南は筑後川が一部国境となるほかは、西と同じく目立った地形にはよらないで養父郡と境する。その一部は古代条里の基線である。
「肥前風土記」に、
<資料は省略されています>
とある。昔、景行天皇が巡狩し、高羅(現福岡県久留米市の高良山)の行宮から国内をみた時、霧が基肄の山を覆っていたので「彼の国は霧の国というべし」といった。それが基肄の国となり、今は郡名となった、という伝承である。ちなみに歌学書「能因歌枕」には、証歌はないが「肥前国」に「霧のさと」の名所をあげている。
郡名は、「和名抄」「延喜式」民部・神名や「三代実録」貞観八年(八六六)七月一五日条および延喜五年(九〇五)一〇月一日の筑前国観世音寺資財帳にもみえる。
用字の「肄」と「肆」、よみの「キ」と「キイ」とには古来から混乱がみられる。肆を用いるものは「延喜式」民部(九条本)・「肥前風土記」(猪熊本・南葵文庫本)・「三代実録」・筑前国観世音寺資財帳などで、肄を用いるものは「和名抄」「延喜式」神名(武田本)・「肥前風土記」(伴本・板本・平田本)・「太宰管内志」などである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報