小倉庄
こくらのしよう
近世の小倉村一帯に比定される太宰府天満宮安楽寺領荘園。
「常行堂、一間四面、円融院御願、永観二年甲申、寄進小倉庄五十六丁、預二人アリ」と天満宮安楽寺草創日記(大宰府神社文書)にみえる。「円融院御願」とあるが、これは円融天皇の侍読を務めたこともある大宰大弐菅原輔正が、永観二年(九八四)安楽寺内に常行堂・宝院・中門廊・回廊などを建立し、小倉庄を寄進したのである。正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)に、「勅免分、安楽寺御領」の内として「小倉庄五十六丁八反」とある。
小倉庄
おぐらのしよう
紀ノ川の南岸、那賀郡西端にあたる。現吐前・金谷・東田中・大垣内・満屋・新庄の地域が荘域と考えられる。建武元年(一三三四)二月日付金峯山宿老紛失状証判(金峯神社文書)に「小倉本庄理趣三昧供壱口、同新庄供弐口」とみえ、小倉庄は本庄と新庄に分れ、大和金峯山領であった。金峯山古今筌蹄記写(徴古雑抄)に、永保二年(一〇八二)八月七日、白河天皇により金峯山に小倉庄の田が寄進され、さらに天永二年(一一一一)一〇月二五日、白河院により小倉庄の余田三一町が一乗寺御塔供灯のための供僧六口分として寄進されたとあり、白河院の寄進により金峯山領になったことがわかる。
小倉庄
こくらのしよう
現春日市中央部、小倉一帯に比定される。承久二年(一二二〇)一二月日の山城石清水八幡宮検校祐清のものとされる譲状(石清水文書/鎌倉遺文四)によれば、金剛法眼住清に譲られた所領の一として宇佐弥勒寺領の小倉庄がみえる。鎌倉時代初期のものとみられる年月日未詳弥勒寺喜多院所領注進状(同文書/大日本古文書四―二)では小倉庄の規模は二五丁であった。また文永七年(一二七〇)三月日の善法寺宮清弥勒寺領注進抜書(同文書/鎌倉遺文一四)には弥勒寺領西宝塔院家庄のうちに小倉新庄があり、八幡宮寺修理別当の知行となっていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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