三養基郡(読み)みやきぐん

日本歴史地名大系 「三養基郡」の解説

三養基郡
みやきぐん

面積:八六・五九平方キロ
基山町きやまちよう中原町なかばるちよう北茂安町きたしげやすちよう上峰村かみみねむら三根町みねちよう

県の東端にあり、西を神埼郡に接するほかは、三方が福岡県域へ食い込んだ形となっている。鳥栖とす市によって基山町が北に、他の四町村が南西に分断される。北部は背振せふり山地に属する九千部くせんぶ(八四八メートル)を最高とする山地で、南・東に向かってしだいに高度を下げて山麓部を形成する。山間には数条の構造線に沿う河谷がある。南部は筑後川の流域で、高原たかはら川・秋光あきみつ川(以上筑後川支流宝満ほうまん川の支流)・大木だいぎ川・安良やすろ川・ぬま川・寒水しようず川・切通きりどおし川・井柳いりゆう川などによって形成された沖積平野が、中間部には山麓に続き洪積層丘陵が広がる。

明治二九年(一八九六)、古代律令制以来の基肄きい養父やぶ三根みねの三郡を廃し、その旧域をもって当郡を設置、旧三郡の頭文字を組み合せて郡名とした。

〔原始・古代〕

先土器時代の石器が基山町の千塔せんど山・城上じようのえや中原町の東寒水ひがししようず姫方ひめかたなどで出土している。縄文時代の遺跡は山麓・丘陵の発掘調査が進むにつれて増加している。弥生時代の遺跡は郡内の丘陵地・微高地に広く濃密に分布している。とくに前期末より中期―後期前半にかけてのものが多く、この時期に稲の水田耕作が定着して人口も増加したことを物語る。貝塚は佐賀平野の標高五メートル未満の筑後川沿岸の微高地端に分布する。

当郡が大和政権に包含されたとみられるのは四世紀後半で、国家統一前の小国家には、県主がいたみねがあり、「魏志倭人伝」にみえる「支惟」を「基肄」として基肄国の存在も考えられている。「国造本紀」にみえる国造のうち、竺志米多つくしめた国造がいた米多は当郡と神埼郡との境界付近に比定され、松津国造の松津は杵肄であるとして当郡の東部に基肄国造の存在も考えられている。

山麓・低丘陵地には古墳が濃密に分布する。五世紀後半から六世紀中頃にかけて巨大な前方後円墳が築造される。上峰村の目達原めたばる古墳群中のかみのびゅう塚は初代竺志米多国造の都紀女加つきめか王の墓に治定されている。七世紀には古墳の築造は山頂・山腹に移行し、巨石を用いた横穴式石室をもつ小円墳で、現存するものでも五〇〇基は下らない。

律令制では当郡域に、基肄・養父・三根の三郡が置かれた。大宰府に近くいずれも小郡である。基肄郡は「肥前風土記」に郷六所とあって姫社ひめこそ郷の一郷のみを挙げ、「和名抄」は姫社・山田やまだ・基肄・川上かわかみ長谷はせの五郷を挙げる。養父郡は「肥前風土記」に郷四所とあって鳥樔とす曰理わたり狭山さやま三郷を、「和名抄」に狭山・屋田おくた・養父・鳥栖の四郷を挙げる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報