堀田氏(読み)ほったうじ

改訂新版 世界大百科事典 「堀田氏」の意味・わかりやすい解説

堀田氏 (ほったうじ)

江戸時代の譜代大名。もと尾張の出身で,1602年(慶長7)正吉のとき,それまで仕えていた小早川氏が断絶して牢人となったが,05年徳川家康から番士に取り立てられた。正吉の長子正盛は3代将軍家光に小姓として仕え,のち若年寄老中を歴任し,42年(寛永19)下総佐倉藩11万石の領主となった。しかし51年(慶安4)正盛は家光に殉死し,跡を継いだ正信は60年(万治3)領地返上の上書を提出して無断で佐倉に帰城したため,所領を没収された。しかし,その子正休(まさやす)は廩米(りんまい)1万石を与えられ,98年(元禄11)には近江宮川1万3000石に封ぜられた。そのまま幕末をむかえ,維新後は子爵。また正盛の三男正俊は4代将軍家綱の小姓を務め,父の死に際し1万石を分封されたが,5代将軍綱吉の擁立功績があり,1681年(天和1)大老に進み,下総古河(こが)13万石の領主となる。数次の転封ののち,1746年(延享3)正亮(まさすけ)のとき,佐倉11万石に転封となり,幕末にいたった。幕末に老中に進んだ正睦(まさよし)は,鎖国から開港にむかう時期に外交の衝に当たった。維新後は伯爵。正俊の三男正高は1684年(貞享1)兄正仲より1万石を分封され,98年に近江堅田に移り,さらに1826年(文政9)正敦(まさあつ)のとき,下野佐野に移封となり,1万6000石を領し城主格となった。正敦は老中松平定信に重用され,若年寄に進み《寛政重修(ちようしゆう)諸家譜》の編纂を総裁した。維新後は子爵。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「堀田氏」の意味・わかりやすい解説

堀田氏
ほったうじ

本姓,紀氏。南北朝時代,正泰のとき,堀田氏を称したという。安土桃山時代,正利のとき初め宇喜多氏に,のち徳川家康に仕えた。子正盛のとき1万 5000石を与えられ寛永 12 (1635) 年老中となった。同 12年武蔵川越3万 5700石を,同 15年信濃松本 10万石を,同 19年には下総佐倉 11万石を領した。万治3 (60) 年正信のとき除封されたが,その子正休は天和2 (82) 年上野吉井1万石を与えられ,元禄 11 (98) 年近江宮川に移封。明治になって子爵。また正盛の子正俊が慶安4 (51) 年下総新墾田1万石を分封され,天和1年には下総古河8万 7000石 (のち 13万石) を領し大老となった。子正仲は出羽山形 10万石,さらに陸奥福島に移り,延享3 (1746) 年正亮のとき下総佐倉 10万石 (のち 13万石) に移封された。明治になって伯爵。正盛の子正高も貞享1 (1684) 年下野佐野に1万石で分与。元禄 11 (98) 年近江堅田に1万石で移封されたが,正敦のとき旧領佐野に復し1万 6000石。明治になって子爵。

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世界大百科事典(旧版)内の堀田氏の言及

【佐倉惣五郎】より

…また正信の弟正盛の子孫正亮が1746年(延享3)に佐倉城主として入封して後,将門山に惣五郎をまつって口の明神と称し,1653年(承応2)8月4日に惣五郎とその男子4人が死んだとして,1752年(宝暦2)はその百回忌相当のため,口の明神を造営し,以後春秋に盛大な祭典を行った。堀田氏は百五十回忌,二百回忌の法会も営み,惣五郎の子孫に5石の田を与えたりしている。これより先,惣五という農民が冤罪で処刑されてときどき祟(たたり)をする,先の堀田氏が滅びたのもそのためだということで,その霊を慰めるために将門山に祠を建てたといわれていた。…

【佐倉藩】より

…下総国(千葉県)佐倉に藩庁を置いた藩。江戸前期には藩主の移動が激しかったが,1746年(延享3)以降は堀田氏の所領として定着した。1590年(天正18)三浦義次入封(1万石)の後,92年(文禄1)武田信吉(徳川家康の第5子,4万石),1602年(慶長7)松平忠輝(同第6子,5万石)と,佐倉の地は徳川一門の所領として重視された。…

※「堀田氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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