若年寄(読み)ワカドシヨリ

デジタル大辞泉 「若年寄」の意味・読み・例文・類語

わか‐どしより【若年寄】

江戸幕府の職名。老中に次ぐ重職で、旗本および老中支配以外の諸役人を統轄。小禄の譜代大名の中から通常数名が任ぜられた。少老。
若いのに言動が年寄りじみた人。

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精選版 日本国語大辞典 「若年寄」の意味・読み・例文・類語

わか‐どしより【若年寄】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 江戸幕府の職制の一つで老中に次ぐもの。主として旗本・御家人の支配・監督にあたり、譜代大名中、小祿の者から選ばれた。若家老。
    1. [初出の実例]「若年寄職務定則 定 一御旗本相詰候万事御用并御訴訟之事」(出典:徳川禁令考‐前集・第二・巻一五・寛永一一年(1634)三月三日)
  3. 若いのに老人のように元気を失っている人。若朽(じゃっきゅう)

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百科事典マイペディア 「若年寄」の意味・わかりやすい解説

若年寄【わかどしより】

江戸幕府の職名。老中に次ぐ職で,老中の管轄以外の旗本御家人に関する指揮を担当した。1632年大御所秀忠が死ぬと将軍家光の周辺には旗本を統率する松平信綱ら6人の出頭人(六人衆)と,秀忠の出頭人として老中の役を果たしていた土井利勝らがいた。前者は〈若き年寄〉(老(おとな)衆)とよばれていたが,1633年家光は〈少々の御用〉は六人衆の合議で取り計らうように定めた。これが起源となった1649年いったん廃止となり,職掌は老中に集められたが,1662年に復活し幕末に至る。定員は3〜5名で譜代小藩の大名が当たった。
→関連項目江戸幕府御庭番海軍奉行海防掛勝手方寛政重修諸家譜郡上一揆軍艦奉行小姓小納戸御用部屋定火消鷹匠田沼意知土浦藩天文方目付陸軍総裁陸軍奉行

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改訂新版 世界大百科事典 「若年寄」の意味・わかりやすい解説

若年寄 (わかどしより)

江戸幕府の職名。老中に次ぐ重職。老中が朝廷,寺社,諸大名など幕府外部の諸勢力を管轄することによって国政を担当したのに対して,若年寄は,旗本,御家人などを指揮,管理することにより,将軍家の家政機関としての幕府内部のことを掌握した。若年寄の職名と職掌は,3代将軍徳川家光の時代の六人衆に起源する。1632年(寛永9)大御所秀忠の死によって実質的に幕政を掌握した家光には,太田資宗三浦正次阿部重次阿部忠秋堀田正盛松平信綱の六人衆と呼ばれた6人の出頭人(しゆつとうにん)が存在しており,彼らは旗本を統率して家光の身辺を護衛すると同時に,常時家光に近侍して諸事を取り次ぐ役割を果たしていた。他方家光には,土井利勝をはじめ秀忠の出頭人として老中の役割を果たしていた人々が存在しており,家光は彼らを無視して幕政を進めることはできなかった。家光の幕府には,秀忠の遺臣と,家光の出頭人との2種類の老(おとな,としより)が併存しており,秀忠の世代に属する前者に対して家光と同世代の後者は,当時〈若き年寄衆〉と呼ばれた。若年寄の称呼はここに起源する。また職掌は,旗本を統率する出頭人としての機能が固定したものであり,具体的には1633年に六人衆は〈少々の御用〉は6人の合議で取り計らうように定められ,翌年には老中と六人衆の分掌が定められて,若年寄は番方の旗本,御家人を支配することとなった。1649年(慶安2)幕府は若年寄を廃してその職務を老中の管掌としたが,62年(寛文2)に再び若年寄を置いた。以後幕末に至る。時期により異なるが,定員は3~5人,幕末には10人以上に及んだ。小禄の譜代大名が任命され,月番で執務した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「若年寄」の意味・わかりやすい解説

若年寄
わかどしより

江戸幕府の職名。全国の支配を担当した老中に対し、旗本支配を軸に将軍家中の支配を担当した。2代将軍秀忠(ひでただ)期の「江戸老中」に端を発し、3代将軍家光(いえみつ)期の「六人衆」のもとで職掌が整えられた。1634年(寛永11)の「定(さだめ)」には、
 一 御旗本相詰候万事御用并(ならびに)御訴訟之事、
 一 諸職人御目見(おめみえ)并御暇(おいとま)之事、
 一 医師方御用之事、
 一 常々御普請(ごふしん)并御作事方(ごさくじかた)之事、
 一 常々被下物(くだされもの)之事、
 一 京大坂駿河(するが)其(その)外所々御番衆并諸役人御用之事、
 一 壱万石以下組はつれ之者御用并御訴訟之事、右之条々、承届可致言上者也(うけたまわりとどけごんじょういたすべきものなり)、
とある。一般には前掲の職掌を担当する「六人衆」を制度史上、若年寄の起源と考えている。しかし「六人衆」は、同じ家光期の1649年(慶安2)に消滅し、その職掌は老中の支配に移される。その後、4代将軍家綱(いえつな)期の1662年(寛文2)に若年寄が設置され、改めて老中・若年寄の分掌事項・支配の役職が定められ幕末に至った。およそ4人を定員とし、ほぼ奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行(ぶぎょう)の役職にある1万石から6万石ほどの譜代(ふだい)大名(帝鑑間(ていかんのま)・菊間詰(きくのまづめ))から補任(ぶにん)され、城中は中奥(なかおく)の御用部屋で老中らとともに政務をとった。のち老中あるいは側用人(そばようにん)などに昇格した者も多かった。

[北原章男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「若年寄」の意味・わかりやすい解説

若年寄
わかどしより

江戸幕府の職名。老中に次ぐ重職で,老中留守居,三奉行などの管轄以外の諸士を統轄し幕政に参与し,参政,少老,執事,旗本支配とも呼ばれた。初めは専任の職ではなく,寛永 10 (1633) 年松平信綱以下6人に協議して小事を裁決させたのが始りで,同 15年若年寄と呼ばれるようになった。一時中絶されたこともあったが,寛文2 (62) 年復活し,延享2 (1745) 年制度改革し,以後幕末まで常置された。小禄の譜代大名が任じられ,普通定員は3~5名であった。別に西丸若年寄,大御所付若年寄がいた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「若年寄」の解説

若年寄
わかどしより

江戸幕府の職名。江戸城に勤務する番士や諸役人・職人などを支配した,老中につぐ幕府の重職。定員は3~5人で,おもに1万~2万石級の譜代大名が任命され,月番で政務を行った。老中が幕府の公儀面にあたったのに対し,大名徳川氏としての家政面を担当した職といえる。一般に1633年(寛永10)に設置された六人衆が起源とされるが,徳川秀忠の側近井上正就(まさなり)・永井尚政(なおまさ)ら「近侍の三臣」にそのきざしがうかがえる。制度的には34~38年の一連の職務規定により成立。49年(慶安2)一時中絶しその職掌は老中に吸収されたが,62年(寛文2)復活。職名は成立当初に年寄衆(老中)に比べて若年の者が任命されたことに由来する。

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旺文社日本史事典 三訂版 「若年寄」の解説

若年寄
わかどしより

江戸幕府の老中につぐ職名
旗本・御家人を管理統轄したほか,職人・医師・作事に関する事務をも処理した。定員は3〜5名で,小禄の譜代大名から選任し,老中と同じく月番制で執務。年寄(老中)に対して若年なる年寄の意味で,1633年松平信綱以下6人に旗本以下のことを分掌させたのに始まる。

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世界大百科事典(旧版)内の若年寄の言及

【江戸幕府】より

…これらの人物は家光の代にも幕府の老(としより∥おとな)として将軍の意思決定・下達に参加したが,このほかに家光の親衛隊長上がりのグループが〈若き老〉として新たに台頭した。前者が老中であり,後者が若年寄であるが,以後老中が主として幕府の全国支配に関することを担当し,若年寄が旗本,御家人の統率など幕府内部にかかわることを担当したのは,このころの職掌が先例として固定したためである。老中,若年寄が日常的に執務した江戸城中の御用部屋には右筆が付属し,先例調査,文書記録の作成に従事した。…

【御用部屋】より

…江戸城本丸御殿で,大老・老中・若年寄が執務した部屋。初期は将軍御座間(ござのま)の近くにあったが,老中・若年寄の側近的性格が薄れた中期以降は,1684年(貞享1)大老堀田正俊の刺殺事件をきっかけに,将軍の日常生活空間である中奥(なかおく)から表に移された。…

※「若年寄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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