堤町
つつみまち
[現在地名]青森市青柳二丁目・堤町一―二丁目の各一部
青森町の東端堤川に沿い、堤川を隔てて作道村浪打と対する。堤町と堤村の区画が判然としないが、天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「包宿」とある。
堤町は寛文一一年(一六七一)に堤川端町として成立したともいうが(青森市町内盛衰記)、「永禄日記」寛永五年(一六二八)の項に「外ノ浜上方船多ク参候而宜敷候故、此上町派立可申候ニ而、去年より御見立有、御公儀江御願立七百軒と申立候由御叶被成候。
堤町
つつみちよう
[現在地名]八戸市堤町
八戸城の南西に位置する武家町。東は番町・馬場町、西は本徒士町、北は売市村に接する。北に売市惣門があり、当町中央を通り、十三日町・廿三日町境を経て、鳥屋部町に至る。文久年間(一八六一―六四)の八戸御城下略図に堤丁とあり、諸士名がみえる。町名は北にある売市堤の堤端に位置したことによる。
売市惣門は城下の脇の出入口にあたり、元禄八年(一六九五)の諸勧進者・乞食・非人らの出入禁止の札が立てられ、番所が開設されている(「八戸藩日記」同年九月五日条)。
堤町
つつみまち
[現在地名]仙台市堤町・堤町一丁目
光明寺の北東にある足軽屋敷で、町南東部に広大な堤があり、町名はこれに由来すると思われる。同堤は梅田川を堰止めたもので、鹿島堤・鹿島崎堤または光明寺堤と称された。堤の南よりほぼ南に堤通が延び、北七番丁以南は侍屋敷が大半、以北は足軽屋敷がわずかにみえるほか御立畑・拝借地が目立つ。同通および当町は正保仙台城絵図には割出されていないが、寛文九―一一年(一六六九―七一)の城下絵図ではみえる。
堤町
つつみちよう
東山区三条南裏通二筋目白川筋西入
東は白川。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「此町の東は白川西ばた也」とあり、天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」は「同(三条通南裏筋)南弐筋目 白川西へ入 堤町」と位置を示す。
寛文六年(一六六六)町地となる(坊目誌)。寛文一二年(一六七二)洛中洛外大図に貼付の付箋に「つゝみ丁」とみえるが、この付箋が当初のものかどうかは定かでない。文献では延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)に堤町の名が載り、正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名并家数改帳(同文書)に「一、三拾壱軒 同(粟田口)堤町」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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