日本歴史地名大系 「青森市」の解説 青森市あおもりし 面積:六九三・五〇平方キロ県のほぼ中央部に位置し、市の中心部は青森湾に沿って東西に細長く開け、中央部を堤(つつみ)川が北流して青森湾に注ぐ。市域は青森湾を半月形に囲む形で形成された沖積平野青森平野と、那須火山帯に属する八甲田(はつこうだ)火山地の北麓、奥羽山脈の北端にあたる東岳(あずまだけ)山地の西麓および大釈迦(だいしやか)丘陵の東麓の広い範囲にわたる。東は夏泊(なつどまり)半島の西の付根と東岳山地をもって東津軽郡平内(ひらない)町および上北郡天間林(てんまばやし)村と接し、南は八甲田連峰を境界として、北八甲田連峰は青森市に属し、南八甲田連峰が十和田市・上北郡十和田湖町・南津軽郡平賀(ひらか)町および黒石市に属する。西は大釈迦丘陵をもって南津軽郡浪岡(なみおか)町、津軽半島の脊梁中山(なかやま)山脈南部をもって五所川原市・北津軽郡金木(かなぎ)町と接する。北は津軽半島東岸の東津軽郡蓬田(よもぎた)村と接する。東の平内町と北の蓬田村ほか二町二村の東津軽郡を青森市が分断する形となっている。青森平野の東部には東岳山地に発する野内(のない)川があり、中央部は八甲田火山地から北流する駒込(こまごめ)川・合子沢(ごうしざわ)川・荒(あら)川と、それらが合した堤川その他によって形成された沖積平野である。上磯(かみいそ)地方とよばれる津軽半島東側の市域は、中山山脈から東流する瀬戸子(せとし)川・奥内(おくない)川・内真部(うちまんぺ)川・六枚橋(ろくまいばし)川その他の小河川によって形成された細長い海岸平野である。国道四号と同七号の終点で、竜飛(たつぴ)崎への国道二八〇号が分岐する。また国鉄東北本線・奥羽本線・津軽線の終始発点で、北海道への青函連絡船の港でもあり、交通の要衝である。寛永元年(一六二四)弘前藩は善知鳥(うとう)村を青森村と改め、外港として港と町づくりを始めた(「封内事実秘苑」市立弘前図書館蔵)。地名の由来は、松林が鬱蒼としていたので海上を通る船人が青森とよんだという(新撰陸奥国誌)。〔原始〕広い市域の西側丘陵部、南部の八甲田火山北麓および東側の東岳山地西麓に遺跡が多い。そのうち、菅江真澄が「すみかの山」寛政八年(一七九六)四月一四日に<資料は省略されています>と書いている三内(さんない)地区には、旧石器(石刃)および縄文時代早期から後期までの土器その他、歴史時代の土師器・須恵器・擦文土器などが出土した三内遺跡、縄文時代中期の三内丸山(まるやま)遺跡、縄文時代早期から後期の土器・石器や竪穴住居跡などが出土した三内沢部(さわべ)遺跡などの遺跡がある。三内に南接する安田(やすだ)および細越(ほそごえ)地区には、縄文時代中・後期の近野(ちかの)遺跡、縄文時代晩期の細越遺跡がある。 青森市あおもりし 2005年4月1日:青森市と南津軽郡浪岡町が合併⇒【青森市】青森県⇒【浪岡町】青森県:南津軽郡 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「青森市」の意味・わかりやすい解説 青森〔市〕あおもり 青森県中央部,青森湾沿いから八甲田山にかけて広がる中核市。1898年市制。2005年浪岡町と合体。かつては善知鳥(うとう)と呼ばれた漁村で,当時外ヶ浜と称したこの付近一帯には砂浜と湿地が広がっていた。江戸時代には奥州街道の宿駅となり,寛永2(1625)年,弘前藩 2代藩主の津軽信枚(つがるのぶひら)が江戸へ米を積み出すために弘前の外港として開港して以来繁栄し,青森と称するようになった。明治4(1871)年県庁所在地となる。1873年青函定期航路開設,1891年東北本線開通,1908年青函連絡船が就航(1988年青函トンネルを通過する JR津軽海峡線の開業に伴い廃止)。1905年奥羽本線も開通し,北海道の連絡港として活況を呈した。第2次世界大戦末期,市街地の約 9割を焼失。戦後,新都市計画のもとに再興し,県内の政治,経済,文化の中心地として発展。農林部では米とリンゴが生産される。浅虫温泉,酸ヶ湯温泉,田代温泉などの温泉地があり,八甲田連峰や十和田湖探勝の基地となっている。8月に行なわれる東北三大夏祭の一つ,ねぶたは有名。市内の青森県立美術館,青森県立郷土館や青森県営浅虫水族館も注目を集めている。国の特別史跡である三内丸山遺跡と史跡の小牧野遺跡は,2021年「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界遺産の文化遺産に登録された。1965年南部の台地に青森空港が開港。1986年には東北自動車道が浦和(埼玉県)から青森まで全通。面積 824.61km2。人口 27万5192(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by