干鰯(読み)ほしか

改訂新版 世界大百科事典 「干鰯」の意味・わかりやすい解説

干鰯 (ほしか)

イワシニシン,かずのこなどを干して乾かし固めた肥料。もと漁村でイワシ類のような大量漁獲物を自給肥料としていたものを,近世になって商品作物栽培が拡大するにつれ,効力が強いうえに運送しやすいこともあって,江戸,大坂,堺などの干鰯問屋を通じて,米・綿作に用いられた。大坂周辺農村ではすでに17世紀後半には一般零細農民の間にまで普及し,ときに農民と問屋との間に代銀支払問題が起こってきた。大坂の干鰯仲間は,もともと雑喉場(ざこば)の干魚仲間から分立したものであるが,近世前期において畿内はもちろん,その外郭地域の11ヵ国に送っている。干鰯仲間は各地の漁場の網元に仕入先銀を与えて漁場を開発拡大し,イワシ漁に努めさせた。1714年(正徳4)諸国から大坂への登り高は銀1万7760貫目,最盛期の24年(享保9)には関西,北国から約130万俵,36年(元文1)には銀3493貫目で,東海,山陽,南海,西海19ヵ国から送られてきた。大坂では,干鰯株仲間の組織規定ができた1653年(承応2)には問屋2,仲買55であったのが,17世紀末には仲買だけでも157,1708年(宝永5)ごろには仲買を含めて干鰯関係商人が234人おり,その後仲間の間に分裂や合併があったが,18世紀半ばごろには干鰯売買人210人余を数えた。

 干鰯は近世初期から中期にかけて九州物,北国物が主であったが,その後九州物が減じて東国物が多くなり,幕末には松前物(北海道)が市場を独占するようになった。干鰯は大坂周辺農村のとくに綿作の発展を促進させたが,その売買値段が米価に比して急騰していったので,1740年には摂津80余ヵ村の嘆願皮切りに,農民と干鰯問屋との紛争が激しくなった。そして干鰯高値をめぐる農民の問屋に対する闘争は,田沼時代末の88年(天明8)摂津・河内22郡836ヵ村の国訴闘争から94年(寛政6)摂河23郡694ヵ村の国訴となり,干鰯高値から菜種・綿実などの絞り粕などの一般肥類高値を対象にした,生産農民の国訴闘争になっていった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「干鰯」の意味・わかりやすい解説

干鰯
ほしか

干鰮とも書く。古く日本で用いられていた魚肥で、日干しにしたり油を絞ったイワシのことで、イワシのほかにニシンも使う。現在はまったく用いられないが、購入肥料の首位の座を占めていた時代もあった。もともと日本は魚貝類の生産が豊富であったが、干鰯の肥料としての利用は局地的、自給的なものにとどまっていた。しかし、江戸時代後期になると養蚕タバコワタ(綿)などの商品作物の生産が拡大し、また海運の便がよくなったことにより干鰯の利用が一般化したが、とくに大坂周辺のワタ作をはじめとする商業的農業発達が干鰯問屋を通し、その普及を早めた。田村仁左衛門吉茂が1841年(天保12)に著した『農業自得』によれば、「粕(かす)、干鰯、油粕、米ぬか等は皆上肥なれども使用にあたりては大小便、灰などと合せ用ひざれば能少し」と記されている。

[小山雄生]

『川崎一郎著『日本における肥料及び肥料智識の源流』(1973・日本土壌協会)』

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百科事典マイペディア 「干鰯」の意味・わかりやすい解説

干鰯【ほしか】

鰯・鰊などを干して固めた肥料。近世,綿作などの商品作物栽培の拡大により,速効性の魚肥の需要が急増。特に大坂近郊農村で早くから普及。17世紀後半には大坂・浦賀(うらが)・江戸をはじめとした干鰯問屋を通じて全国に普及。干鰯は初期には西国物が多かったが,関西漁民の進出によって鰯漁法が発達した房総を主とした東国物が多くなり,幕末には松前(まつまえ)物が多かった。
→関連項目イワシ(鰯)大浜魚肥

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「干鰯」の解説

干鰯
ほしか

鰯(いわし)・鰊(にしん)などを乾燥させて作った江戸時代の代表的購入肥料。魚油を搾ったあとの粕である〆粕(しめかす)とともに,近世農業の地力維持に不可欠な肥料であった。すぐれた有機的肥料の一つとして農民に購入され,綿・菜種などの商品作物の栽培には全国的に使用され,畿内では稲作にも用いた。産地は日本列島の大部分の海岸地帯の漁村に分布しており,大坂の干鰯問屋は産地によって西国物・関東物・北国物・松前物に区別し,全国にむけて出荷した。金肥として重要な地位を占めると,価格の高騰が直接に農業経営を圧迫することになり,幕末期には農民は干鰯にかえて北海道産の鰊粕を用いるようになった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「干鰯」の解説

干鰯
ほしか

江戸時代,鰊・鰯などの乾燥肥料で,油粕とともに金肥(購入肥料)の中心
商品作物,特に木綿栽培の肥料として多く利用された。初めは九州・北国ものが多かったが,元禄(1688〜1704)ころから九十九里や三陸方面で発達,幕末は松前ものが支配し,商業的農業の発達をもたらした。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「干鰯」の意味・わかりやすい解説

干鰯
ほしか

いわしを干して魚肥としたもので,戦国時代より近代にいたるまで使用された購入肥料 (金肥) 。干鰯の産地は,江戸時代初期は九州,四国であったが,中期以降は房総,三陸でも生産され,特に九十九里の干鰯生産量は多大であった。

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世界大百科事典(旧版)内の干鰯の言及

【イワシ(鰯∥鰮)】より


[イワシの利用]
 日本では,マイワシの骨が貝塚より見いだされるなど古くから利用されていたことがわかる。江戸時代から昭和初期にかけて,九十九里浜のイワシの地引網が盛んで,生食用,干物,または灯火用の油,その搾りかすで肥料としての〆粕(しめかす),ほしか(干鰯)などに利用していた。現在も地名にそのころにぎわった漁村集落のなごりが見られる。…

【魚肥】より

…生産,消費は昭和10年ころが最高であったが,第2次大戦後のイワシ,ニシンの漁獲高激減などにより生産量は減少した。魚肥はほしか(干鰯)とイワシやニシンの〆粕(しめかす)(油をとった残り粕)が主であったが,最近は魚類の加工残渣や調理残渣の処理物である荒粕類がほとんどである。後者は魚骨の割合が多いため,窒素含量が低く,リン酸含量が高くなる。…

【近世社会】より

…鍬や鎌の供給については,広く各地の初期の状態についての研究はないが,たとえば上田藩や米沢藩では領内の鍛冶屋の製品や,ときには他藩の製品も一度藩の手に集められて,百姓に供給されている。その支払方法は両藩ともに明らかでないが,加賀藩の塩の専売や,干鰯(ほしか)奨励政策では,代価の支払は出来秋に年貢とともに米で納められている。貨幣を要しない時代のあったことを想定してよい。…

【摂津国】より

…その数は明暦年間(1655‐58)25,元禄(1688‐1704)のころ95,天保年間(1830‐44)125を数えた。蔵物だけでなく各地から登される農民的商品を集散する市場として,堂島の米市場,天満の青物市場,雑喉場(ざこば)の魚市場,永代浜の塩魚・干鰯(ほしか)の取引などが生まれた。 大坂における商品流通の盛大は摂津の農業,加工業を刺激した。…

【ワタ(棉∥綿)】より


[畿内への集中]
 ところが幕藩体制の成立によって,幕府は中世末に分業関係の成立していた畿内を重要視し,西日本の中央市場を大坂に設定してから,消費物資生産の種々の産業が大坂周辺におこり,その一つとしての衣料原料である綿を周辺農村に求めることとなった。そして綿の肥料である干鰯(ほしか)などが当初は近海の紀伊,和泉などから供給された事情も伴い,17世紀末までの綿および加工品の産地は畿内の地位が圧倒的に高く,そのほかに周辺地の紀伊,丹波と近海運航に便利な瀬戸内諸国に集中し,中世末期の産地であった東日本や九州などの辺境の産地を壊滅させた。 畿内では,初めは畑のみに作られたが,需要の増大とともに田に,稲→麦(裏作)→綿という順序で,裏作の麦を刈り取る前に,麦のわきに綿をまき付け,田畑(でんぱた)輪換方式をとりいれ,乾田化を進めて綿が全耕地の50~80%をこえている村も出現している。…

※「干鰯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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