塚原 健二郎
ツカハラ ケンジロウ
大正・昭和期の児童文学者,童話作家
- 生年
- 明治28(1895)年2月16日
- 没年
- 昭和40(1965)年8月7日
- 出生地
- 長野県東条村
- 別名
- 俳号=子竹
- 学歴〔年〕
- 松代農業学校中退
- 主な受賞名〔年〕
- 未明文学賞(第3回)〔昭和35年〕「風と花の輪」
- 経歴
- 15歳で小諸の雑貨商に勤める。大正5年上京し、島崎藤村に師事、また7年に武者小路実篤の新しき村に参加。のち「中央文学」の編集などをつとめ、10年「血につながる人々」を発表し作家生活に入る。15年「水なし車」を発表して童話作家となり、以後幅広く活躍。昭和8年頃から集団主義童話を提唱し、また地域の児童文化活動、消費組合運動にとりくむ。戦時中は少国民文化協会会員、戦後は日本児童文学者協会理事、会長となる。没後、塚原健二郎文化賞が設けられた。主な作品に「七階の子どもたち」「犬のものがたり」「風船は空に」「風と花の輪」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
塚原健二郎
つかはらけんじろう
(1895―1965)
児童文学者。長野県東条村(現長野市)に生まれる。農学校中退。島崎藤村(とうそん)に師事、1921年(大正10)『中央公論』に小説処女作『血につながる人々』を発表したが、26年から『赤い鳥』に童話を執筆、『集団主義童話の提唱』(1933。都(みやこ)新聞)以来、生活派の童話作家として知られる。処女出版の『七階の子供たち』(1937)ほか童話集が多く、代表作は長編『風と花の輪』(1959。未明(みめい)文学賞受賞)。64年(昭和39)日本児童文学者協会会長となり、翌年没した。
[関 英雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
塚原健二郎 つかはら-けんじろう
1895-1965 大正-昭和時代の童話作家。
明治28年2月16日生まれ。武者小路実篤(むしゃのこうじ-さねあつ)の新しき村に参加。大正10年小説「血につながる人々」を発表する。15年ごろから童話をかきはじめ,「赤い鳥」などに執筆。昭和8年集団主義童話を提唱。戦後は日本児童文学者協会の理事をつとめ,39年会長。昭和40年8月7日死去。70歳。長野県出身。松代農商中退。俳号は子竹。著作に「風と花の輪」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
塚原 健二郎 (つかはら けんじろう)
生年月日:1895年2月16日
大正時代;昭和時代の児童文学作家;童話作家。日本児童文学者協会会長
1965年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の塚原健二郎の言及
【児童文学】より
…しかし,理論をうらづけるだけの実作をともなわないままに解放運動は中絶し,転向と抵抗との複雑なからみあいのなかで,社会主義リアリズムの一側面を生活主義童話の提唱としておし出した。槙本,川崎や塚原健二郎,岡本良雄らの作品で,児童の自主性と社会性が児童文学のおもな題材となる道はひらけたが,戦争の重圧のなかで平板な生活童話に変質し,スケッチ的・風俗小説的作風は現代の児童文学になお色こくみられる弱点となっている。これは,回想的・私小説的方法とともに,児童文学から物語性に富んだおもしろさをうばいとり,子どもを通俗文学のとりことして放置する結果を生んだ。…
※「塚原健二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」