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中央公論新社(旧中央公論社)発行の総合雑誌。西本願寺の若い僧侶(そうりょ)の間におこった修養・禁酒運動の機関誌『反省会雑誌』(1887創刊)として出発し、のち『反省雑誌』(1892)、『中央公論』(1899)と改題され、現在も発行され続けている、もっとも古い伝統をもつ月刊総合雑誌である。1904年(明治37)滝田樗陰(ちょいん)が編集者となり、やがて主幹として活躍した10年代から20年代にかけて同誌は、吉野作造の民本主義論や大山郁夫(いくお)、美濃部(みのべ)達吉などの進歩的言論を相次いで世に問い、新たに文芸欄を設けて夏目漱石(そうせき)、島崎藤村(とうそん)、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、志賀直哉(なおや)、永井荷風(かふう)の名作を掲載するなどして文壇、論壇の主流を形成していた。
1925年(大正14)名編集者樗陰が世を去り、28年(昭和3)西本願寺系の社長麻田駒之助(こまのすけ)は、入社以来すでに16年のキャリアをもち、自らの発案で『婦人公論』を創刊(1916)するなど意欲的な活動をしていた嶋中(しまなか)雄作に社業を譲り、以降中央公論社は嶋中によって運営されることになった。編集、経営両面に才能をもつ嶋中は、社業を単行本や全集にまで拡大させたが、太平洋戦争下、『中央公論』の編集傾向が軍の忌避するところとなり、横浜事件で編集者が次々と検挙されるなかで、44年7月東条内閣から自発的閉社を命ぜられた。敗戦後、同社はただちに再建され、『中央公論』も復刊、49年(昭和24)雄作没後は次男鵬二(ほうじ)が社業を継いだ。同社は、雑誌のほか各種の図書、全集類、『中公新書』『中公文庫』などを刊行し、その規模を一段と拡大したが、97年(平成9)に鵬二が死去、経営危機が表面化し99年2月、読売新聞社に譲渡され読売の100%子会社である中央公論新社に出版活動が引き継がれた。『中央公論』60年12月号は、深沢七郎の小説『風流夢譚(むたん)』を掲載して右翼の暴力的攻撃を受け、大きな問題となったが、この事件は、日本社会の体質の不変と言論・表現の自由の問題を改めて考えさせるものであった。
[海老原光義]
『中央公論社編・刊『中央公論の八十年』(1965)』▽『畑中繁雄著『覚書 昭和出版弾圧小史』(1965・図書新聞)』
中央公論社発行の総合雑誌。1887年京都の西本願寺から創刊された《反省会雑誌》という団体〈反省会〉の機関紙が前身である。この雑誌は92年《反省雑誌》となり,99年《中央公論》と改題され,発行所は反省社,1914年中央公論社となった。《中央公論》の地位を確立した功労者は滝田樗陰(ちよいん)(1882-1925)である。樗陰はまず文芸欄を拡充し,明治末期から大正期にかけて谷崎潤一郎,志賀直哉,芥川竜之介ら新進作家を数多く登場させ,〈文壇の登竜門〉としての権威を築いた。ついで吉野作造,大山郁夫,福田徳三らを執筆者として起用し,雑誌は大正デモクラシー運動の思想的担い手の役割を果たした。吉野の〈憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず〉はその代表的論説であり,後の総合雑誌の巻頭論文なるものの典型となった。樗陰のつくりあげた伝統は嶋中雄作によって受け継がれ,その自由主義的編集は,昭和10年代のファシズム期にしばしば言論弾圧を被らざるをえなかった。石川達三《生きてゐる兵隊》事件はその代表的なものであり,1944年には横浜事件を契機に廃刊に追い込まれた。第2次大戦後の46年1月号から復刊。論壇・文壇に数々の話題を提供した。なかでも広津和郎《松川裁判》の長期連載は特筆すべきものであった。60年12月号の深沢七郎《風流夢譚》が皇室を侮辱するものとして右翼のはげしい攻撃を受け,翌61年2月にテロ事件(風流夢譚事件)に発展して以来,誌面にいささかの変化がみられるようになった。
執筆者:京谷 秀夫
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明治期~現代の総合雑誌。1887年(明治20)浄土真宗本願寺派の学生の修養団体反省会の機関誌「反省会雑誌」として京都で創刊。92年「反省雑誌」と改題,99年発行所を東京に移し,「中央公論」と改題,宗門から独立した総合雑誌としての性格を強めた。1903年末滝田樗陰(ちょいん)が編集にたずさわって文芸欄を充実させると,急速に発行部数を伸ばし,文壇の登竜門としての権威をもった。論壇においても指導的な立場にあり,大正期には吉野作造らを起用し大正デモクラシー論議の中心舞台となった。昭和に入り横浜事件などの言論弾圧をうけ,44年(昭和19)中央公論社に対する解散命令により廃刊。46年1月に復刊し現在に至る。
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…桂太郎内閣と元老山県有朋の軍備優先・民生無視の政策態度に対して,《時事新報》《朝日新聞》《万朝報》などの記者たちは,実業界代表とともに憲政擁護運動を展開し,桂内閣の退陣を実現して軍備拡張予算を一時的には食いとめた。この運動のさなかに雑誌《中央公論》は吉野作造の民本主義論を掲載し,編集長滝田樗陰はやがて新文学の旗手たちをもそだて,日本ファシズムに対する言論の最強力な対立者へと同誌が充実する素地をつくった。また,石橋湛山が《東洋経済新報》において反戦自由主義経済論をつらぬくにいたる契機も,この運動にあった。…
… 徳富蘇峰が1887年に創刊した《国民之友》は,彼が青年期に主唱した平民主義の論説や民友社同人らの評論とともに,二葉亭四迷などの小説を掲載して,総合雑誌の基本的なスタイルを確立した。博文館の《太陽》(1895)もその形式にならったが,これをいっそう大胆に発展させたのが大正時代の《中央公論》と《改造》とであった。《中央公論》(1887年創刊の《反省会雑誌》が99年に改題)の編集長滝田樗陰(ちよいん)は,吉野作造を起用して民本主義の論説評論を連打するとともに若い作家群を発掘して魅力を加えた。…
…嶋中事件ともいう。《中央公論》は1960年12月号に深沢七郎の創作《風流夢譚》を掲載したが,この作品は皇室を侮辱したものであるとした右翼団体は中央公論社に対する圧力を強めた。61年2月1日夜,大日本愛国党の元党員の少年が中央公論社嶋中社長宅に侵入し,社長夫人に重傷を負わせ,お手伝いさんを刺殺した。…
…1916年1月に中央公論社から創刊された女性雑誌。他の女性雑誌と違ってほとんど実用記事を載せず,女性解放,男女同権をめざす,インテリ向け女性評論誌として出発した。…
※「中央公論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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