日本歴史地名大系 「境谷村」の解説 境谷村さかいだにむら 京都府:舞鶴市池之内地区境谷村[現在地名]舞鶴市字境谷伊佐津(いさづ)川右岸、万願寺(まんがんじ)村の北に接する谷あいの村。この谷は西に延びて西舞鶴の平野をほぼ南北に分けていた。境谷とはこれらの境界にあたる谷という意味であろう。近世初期、京極高知は伊佐津川瀬替えの折、この地の西に延びている山麓を切断し、河道を北に直進させた。切り取られて残った山は切山(きりやま)といわれ、その頂上付近から五世紀頃の古墳が発見されている。また切山の裏山や田畑には平安前期の遺物が散布、切山遺跡といわれる。慶長検地郷村帳に高一五四・七七石「堺谷村」とみえ、土目録では一五五石余、内訳は田方一四一石余、畑方一三石余、運上のなかに渋柿五斗がある。 境谷村さかいだにむら 和歌山県:那賀郡岩出町境谷村[現在地名]岩出町境谷葛城(和泉)山脈中の四石(よついし)山(三八四・四メートル)の南側山中にある。東は奥安上谷(おくあんじようだに)村。村内の渓谷は西流して山中(やまなか)川に合流し大阪湾に流れ込む。「延喜式」臨時祭の「畿内堺十処疫神祭」に「和泉与紀伊堺九」とあるのはこの辺りと推定されている。中世は山崎(やまさき)庄に含まれたと思われる。慶長検地高目録は「堺谷村」と記し、村高一五四石余、小物成三石九斗六合。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by