空海を宗祖とし、覚鑁を派祖とする宗派。高野山を中心とする真言宗を「古義」と呼ぶ。大伝法院の創建をめぐり、金剛峯寺座主だった覚鑁が高野山を追われ、根来寺(和歌山県岩出市)を建立し、教学研究に励んだ。古義は大日如来が直接説法するという立場に対し、新義は衆生の利益のために姿や形を変えて説法する説をとる。
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高野山を拠点とする空海以来の真言宗(古義真言宗)に対し,紀州根来(ねごろ)寺に拠った覚鑁(かくばん)を宗祖とする一派。現在は京都智積(ちしやく)院を本山とする真言宗智山派と,奈良県桜井市の長谷寺を本山とする真言宗豊山(ぶざん)派が二大宗派で,根来寺は別に新義真言宗本山を称する。
平安時代末期の僧興教大師覚鑁は,肥前国に生まれ,仁和寺,興福寺,東大寺を経て高野山に登り,鳥羽上皇の絶大な信任を得て,1132年(長承1)山上に大伝法院,密厳(みつごん)院を建立し,また,伝法会料として紀伊国7ヵ荘の寄進を受けた。彼は高野山のさらなる興隆をはかり,真然以来の伝法大会を再興して教学を盛んにし,東寺長者の高野山座主兼摂を排してみずから本寺(金剛峯寺)と末院(大伝法院)の座主に就き,当時大きな影響力をもっていた浄土教に対決して秘密念仏を唱えた。しかしその改革があまりにも急激であったため,東寺長者や金剛峯寺方の僧侶たちの反感を買い,1140年(保延6)ついに本末合戦に敗れて大伝法院方の僧侶たちとともに根来(現,和歌山県岩出市)の地に移った。覚鑁の没後,大伝法院方の僧侶たちは院宣によって帰山したものの,その後も本末の争いは絶えることなく,1288年(正応1)大伝法院学頭頼瑜(らいゆ)(1226-1304)は,大伝法院方の僧侶たちとともに高野山を最終的に退去し,付属の建物を根来の地に移して,根来寺として新たな出発をはかった。頼瑜は加持身教主説を提唱して教学上の新風をうちたて,新義真言宗興隆の基礎を築いた。その後,根来寺は大いに繁栄したものの,1585年(天正13)豊臣秀吉の兵火のために灰燼(かいじん)に帰し,難を避けた妙音院専誉(1530-1604),智積院玄宥(げんゆう)(1529-1605)は,長谷寺,智積院をそれぞれ再興し,新義真言宗中興の祖となった。
執筆者:山陰 加春夫
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真言宗の一派。古義真言宗に対する。紀州根来寺(ねごろじ)(和歌山県岩出市)を開いた覚鑁(かくばん)(1095―1143)を派祖とし、その後、大和(やまと)長谷寺(はせでら)(奈良県初瀬町)を総本山とする豊山派(ぶざんは)、智積院(ちしゃくいん)(京都東山七条)を総本山とする智山派(ちさんは)とに分かれる。
[宮坂宥勝]
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…さらに1288年(正応1),大伝法院方の頼瑜は高野山金剛峯寺と袂別(べいべつ)し,大伝法院などを根来の地に移し,根来寺として新たな出発を行った。これがのちの〈新義真言宗〉の成立であり,これに対して従来の系統をのちに〈古義真言宗〉と呼ぶようになる。頼瑜は,金剛峯寺の法性,道範らの教主本地身説に対して,教主加持身説を説いた。…
…和歌山県那賀郡岩出町にある新義真言宗の本山。根来山大伝法院と号し,根来寺は通称。…
※「新義真言宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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