舞鶴市(読み)マイヅルシ

日本歴史地名大系 「舞鶴市」の解説

舞鶴市
まいづるし

面積:三四〇・九五平方キロ

府の北東部に位置し、北は日本海に面する。東は青葉(あおば)山(六九九メートル)・三国(みくに)岳(六一六・四メートル)の山嶺をもって福井県大飯(おおい)郡、南は養老(ようろう)山(六六五・四メートル)・弥仙(みせん)山(五九九・四メートル)の山嶺で綾部市、西は湯舟(ゆぶね)山(三六八・三メートル)山塊で加佐郡大江(おおえ)町および杉(すぎ)山(六九七メートル)・赤岩(あかいわ)山(六六九メートル)・由良(ゆら)ヶ岳(六四〇メートル)の山嶺で宮津市と接する。

現市域は旧加佐郡の大部分を占め、西部を由良川がほぼ北流して日本海に注ぐ。中央部では伊佐津(いさづ)川が北流、池内(いけうち)川を合わせて舞鶴湾(西湾)に注ぐが、その下流では西方から東流してきた高野(たかの)川が北へ流れを変えて伊佐津川の西方をほぼ平行に流れ、この二川の流域に沖積平野が広がる。中央部の北方は舞鶴湾が東西に分れて南へ湾入、市域北東部の大浦(おおうら)半島が湾をふさぐように西に張り出している。

市域には構造谷が多く、とくに東部には、ほぼ東西に北から河辺(かわなべ)谷・朝来(あせく)谷・志楽(しらく)谷・祖母(そぼ)谷・与保呂(よほろ)谷があり、各々同名の川が流れて舞鶴湾(東湾)に注ぐ。

地名「舞鶴」は、明治元年(一八六八)紀伊国に田辺藩が立藩されたため、翌年太政官の命により当地の田辺藩を舞鶴藩と改名したのに始まる。舞鶴城は田辺(たなべ)城の別称であった。

〔原始〕

市域の出土品のなかで最古のものは、大浦半島小橋(おばせ)川の河口付近(小橋遺跡)で発見された有舌尖頭器である。

縄文時代の遺跡は、地頭(じとう)遺跡(前期―後期)・和江(わえ)遺跡(前期―晩期)・三日市(みつかいち)遺跡(中期)・桑飼下(くわがいしも)遺跡(後期)・岡田由里(おかだゆり)遺跡(後期)・蒲江(かまや)遺跡(後期)など由良川流域に多い。前期は少なく、多くは中期―晩期に属するものである。

弥生時代の遺跡は同じく地頭・和江・蒲江・桑飼下・岡田由里で発見されているほか、高野川流域の女布(によう)の下森(しももり)神社境内(女布遺跡)、伊佐津川流域の万願寺(まんがんじ)の菖蒲谷(しようぶだに)口(菖蒲谷遺跡)でも発見されている。また下安久(しもあぐ)の匂崎(におざき)から袈裟襷文のある銅鐸二個が出土している。

当地域で発見されている古墳に伊佐津川流域の切山(きりやま)古墳(五世紀)、与保呂川流域の妙見山(みようけんやま)古墳群(六世紀後半)をはじめ、河辺中(かわなべなか)の干田(ひだ)古墳群、万願寺の上殿(うえどの)古墳群、和江の城(じよう)ヶ腰(こし)古墳群などがあるが、いずれも横穴式石室を主体とした六世紀末から七世紀の円墳である。

〔古代〕

和銅六年(七一三)丹波国の五郡を割いて丹後国が置かれた(続日本紀)が、加佐郡はその五郡の一である。「和名抄」に記す加佐郡一〇郷のうち、市域内に比定されるものは、志楽・椋橋(くらはし)・大内(おおうち)・田辺・志託(したか)・余戸(あまるべ)の六郷である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「舞鶴市」の意味・わかりやすい解説

舞鶴〔市〕
まいづる

京都府北部,若狭湾の支湾である舞鶴湾に面する市。1938年舞鶴(西)と東舞鶴とが同時に市制を施行,1943年両市が合体して,今日の舞鶴市が発足。西舞鶴は江戸時代牧野氏の城下町,西廻航路の港町として発展(→西廻海運)。中舞鶴には 1901年海軍鎮守府が設置され,また東舞鶴には軍関係の諸施設が置かれ,軍都として栄えた。舞鶴港は日本海側屈指の良港で,重要港湾に指定されている。第2次世界大戦後,軍関係の施設や用地が民間の工場に転用され,造船,車両,板ガラス,繊維などの工場ができ,工業都市としての性格を深めている。海上自衛隊地方総監部がある。松尾寺の普賢延命像は国宝。冠島のオオミズナギドリ繁殖地は国の天然記念物。海岸部は丹後天橋立大江山国定公園と若狭湾国定公園に属する。東舞鶴は JR舞鶴線と小浜線の結節点。北近畿タンゴ鉄道,国道27号線,178号線が通る。また,東舞鶴港から小樽へ新日本海フェリーの定期航路がある。面積 342.13km2。人口 8万336(2020)。

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