大値賀
おおちか
中世にみえる地名で、「肥前国風土記」にみえる大近を継承する。また大智賀島などとも記されるように、小値賀島と同じくより広域の通称名であったと考えられる。その範囲は明らかにしがたく、五島列島の西半部と想定されるものの、中世には所領が分割相続されていくにつれその範囲は狭くなり、戦国期には現在の福江島、さらに近世の福江城下を中心とする一帯を称するようになったと考えられる。文保二年(一三一八)一二月九日の鎮西下知状案(実相院文書)に「大値賀上村」とみえ、同村の地頭代である宗重が肥前国一宮の河上社(現佐賀県大和町)の造営用途を納入せず、二度の召文にも応じることがなかったらしく、その弁済を命じられている。元応二年(一三二〇)青方高光とその兄の高継との相論のなかで、高継が父の能高の譲状を作成した人物を当初は法明であると言い、次には長弁だと言ったことに対して、高光は長弁と法明は別人で、長弁の子孫は宇久島(現宇久町)に多く、法明の子孫は奈留(現奈留町)、大値賀上下村、玉浦(現玉之浦町)に多いと主張している(同年八月日「青方高光申状案」青方文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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