福江城下
ふくえじようか
福江は深江と称していたが、寛永一五年(一六三八)福江藩五島氏(宇久氏)の石田陣屋(通称福江城)が完成するにあたり、嘉字を充てて福江に改めたという(五島編年史)。ただしその後も深江は用いられ、また表記は福江ながら従来どおりフカエと読む例は長きにわたった。城下の町は江戸時代の福江村のうちであるが、慶長一九年(一六一四)八月五島氏の居城であった江川城が全焼、これ以後長く五島氏は築城を許されず、寛永一五年に完成したとされる石田浜の陣屋を藩政庁としたため、この陣屋を核に形成された。幕府の築城許可が出て福江城(石田城)が完成したのは文久三年(一八六三)であった。
〔城下の建設〕
五島氏の家臣は中世以来の在地における知行権を継承しており、当初、家臣団を城下に集住させるのは困難であったが、御家騒動を乗切って領主権を確立した盛利のとき家臣の城下集住を実施している。これを「福江直り」とよび、寛永一一年末までには完了したとされる。家臣団は一七〇余家で、寛永一一年当時の屋敷割における町名は、池田町・横町・殿向町・江上町・横田町・田岸町・上之町・御向屋敷・清浄寺向町・本町・床之上町・三尾之町・四ッ辻・尾野上町・観音寺馬場町・石橋町・大工町・開田町・新道・山ノ中町・犬ノ馬場・唐人町・加子町(水主町)・新町・後町・江戸町・小人町(仲間町・六尺町)・新小人町・御船元(加子町のうち)・惣町(商人町)・職人町(桶屋町・銀屋町・鍛冶屋町・紺屋町)・漁師町であった(五島編年史)。正保三年(一六四六)ポルトガル船の長崎入港を機に異国船警備体制が強化され、番役人のための番町として一番町・二番町・三番町が新設された。一番町に弓衆、二番町に鉄砲衆、三番町には長柄衆が配された。
嘉永三年(一八五〇)の福江城絵図面(長崎図書館蔵)では北東部が海に臨む郭内のやや東寄りに堀に囲まれた本丸があり、その南に二の郭、同じく西手に三の郭が置かれている。南東の入江には波除けの堤防がみられ、この入江に続く外堀の外側、本丸の南から西にかけて侍屋敷が続いている。三の郭の北に水門があり、さらにその北は湊口で波止が築かれており、その西は船手町で、その南手に町家が並ぶ。石田城見取図(太田家蔵)によれば、本丸は二千六七一坪で、御築山門・眼鏡橋門・中仕切門・大手門・大手橋により内堀を渡る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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