日本歴史地名大系 「福江城下」の解説
福江城下
ふくえじようか
〔城下の建設〕
五島氏の家臣は中世以来の在地における知行権を継承しており、当初、家臣団を城下に集住させるのは困難であったが、御家騒動を乗切って領主権を確立した盛利のとき家臣の城下集住を実施している。これを「福江直り」とよび、寛永一一年末までには完了したとされる。家臣団は一七〇余家で、寛永一一年当時の屋敷割における町名は、
嘉永三年(一八五〇)の福江城絵図面(長崎図書館蔵)では北東部が海に臨む郭内のやや東寄りに堀に囲まれた本丸があり、その南に二の郭、同じく西手に三の郭が置かれている。南東の入江には波除けの堤防がみられ、この入江に続く外堀の外側、本丸の南から西にかけて侍屋敷が続いている。三の郭の北に水門があり、さらにその北は湊口で波止が築かれており、その西は船手町で、その南手に町家が並ぶ。石田城見取図(太田家蔵)によれば、本丸は二千六七一坪で、御築山門・眼鏡橋門・中仕切門・大手門・大手橋により内堀を渡る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報