日本歴史地名大系 「大工丁」の解説 大工丁だいくちよう 岡山県:高梁市松山城下大工丁[現在地名]高梁市大工町柿木(かきのき)丁の西、鍛冶(かじ)町との間に位置する家中屋敷町。城下町草創期に大工の居住した町ではないかと思われるが、藩主水谷氏時代には家中屋敷が置かれており、元禄(一六八八―一七〇四)初年には、長さ四八間の道沿いに家中屋敷一〇と給人屋敷一があった(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)。藩主石川総慶時代には家中屋敷九および明屋敷・明地各一があり、町の南半分は正善(しようぜん)寺が占めていた(「松山城下絵図」三重県亀山市立図書館蔵)。板倉勝澄入部直後の松山家中屋敷覚(高梁市立図書館蔵)には記載されていないが、天保三年(一八三二)と同一〇年の大火ではそれぞれ罹災し、全焼している(「松山御城主暦代記」同館蔵)。 大工丁だいくちよう 福島県:会津若松市若松城下大工丁[現在地名]会津若松市栄町(さかえまち)・上町(うわまち)甲賀(こうか)町の南端より東方本六日(ほんむいか)町までの東西通りで、長さ四三間余・幅三間余、家数八(新編会津風土記)。蒲生氏時代には士屋敷があったが、のち工匠(大工・職人)が多く住んだのでこの名がついた。寛文六年(一六六六)の「会陽町街改基・惣町」には甲賀町の傍出町とされ、「此町昔匠工多シ、故ニ名ク」とある。「会津鑑」には、蒲生氏郷が近江国より連れてきた鉄砲工の岡勘左衛門が、初めて鉄砲を作ったと記している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報