日本歴史地名大系 「大村城跡」の解説
大村城跡
おおむらじようあと
〔大村氏〕
天正一五年(一五八七)豊臣秀吉による九州攻めに際して、大村純忠は子の喜前を参陣させることにしたが(大村家秘録)、自らは喜前の出陣中に没した。九州仕置に伴う国割で喜前は旧領を安堵、近世大名の地位を固めていくが、同年六月バテレン追放令が発せられ、長崎が収公されるなど貿易利潤が見込めなくなり、領主財政は立直しを迫られた。いわば重商主義から農政の重視などへと政策転換を余儀なくされた。喜前は朝鮮出兵では小西行長が率いる一番隊に属して一千人を編制して渡海(天正記)、慶長二年(一五九七)の再征ではやはり行長の二番隊にあって一千人を陣立てた(二月二一日「豊臣秀吉朱印状」浅野家文書)。この文禄・慶長の役に伴う出兵を契機として家臣団の統制や兵農分離策を推進したが、なかに中世以来の領知の大半を没収された小佐々氏や、取潰しとされた神浦氏・瀬戸氏ら
〔築城前後〕
慶長三年大村喜前は朝鮮への出兵の経験から海を控えた要害の地が有利として、山城の
玖島城絵図(大村市立史料館蔵)などによれば、本丸の南に二の郭・二の丸屋敷、その南東に大手があり、かりかと川(玖島川)を渡ると城下町に通じる。本丸の西手に三の郭があり、その南の
大村城跡
おおむらじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報