日本大百科全書(ニッポニカ) 「蔵米知行制」の意味・わかりやすい解説
蔵米知行制
くらまいちぎょうせい
大名から石高(こくだか)(草高(くさだか))ないし、所付(ところづけ)(村付)だけの名目的な知行地(給地、給知ともいう)を給付されてはいるものの、知行地を給付された家臣(給人という)は、土地と農民に対する個別的・直接的な支配権はまったく認められず、藩庫に収納された蔵米を知行高に応じて支給される(これを物成渡(ものなりわたし)という)、江戸時代独自の知行形態。
江戸時代の知行制は、(1)地方(じかた)知行制、(2)蔵米知行制、(3)非知行の三つの形態に大別され、(3)の非知行とは、名目上の知行地さえも与えられない下級の家臣に対する給与制度で、扶持米取(ふちまいどり)といわれ、1日に米何合(5合が標準)を一人扶持と定め、何人扶持というぐあいに現物の米や金(扶持米、扶持銭、切米(きりまい)、切銭)を幕府や藩から支給される場合をいう。蔵米知行制も、知行地給与が名目化され、大名の藩庫から直接に現米や米切手を支給される蔵米取(切米取ともいう)であったため、現実的には扶持米取と同質であった。そのため、蔵米知行制は扶持米取を含めて俸禄(ほうろく)制と称する場合が多い。
しかし、俸禄制を文字どおり家臣が大名から受ける給与制度の面だけで理解すると、蔵米知行制の歴史的意義を見失ってしまう。江戸時代の知行制は兵農分離制と石高制という幕藩制国家の支配原理によって特質づけられていた。将軍・大名によって家臣団が城下町に集住することを強制された結果、給人と知行地農民との支配関係は間接的なものにならざるをえず、また、石高制の採用によって、禄高さえ一致すれば知行地を分散しても差し支えなくなったため、在地領主制の基礎である土地と農民に対する個別的・直接的な支配権は、基本的には大名によって掌握され、地方知行制が形骸(けいがい)化ないし廃止されて蔵米知行制の方向へ進む可能性は最初から内包していた。しかし、江戸時代初期には、大名が軍事動員や普請(ふしん)役などの幕府軍役を家臣に転嫁する必要性などから多くの藩で地方知行制がとられた。
ところが、給人の恣意(しい)的支配によって農民の疲弊と抵抗が激増したため、知行地割替(わりかえ)や年貢率の定率化(平均免(ならしめん)という)、給人の年貢収納権の収公などの初期藩政改革を実施して、地方知行制の廃止ないし形骸化を図ることが緊要の課題となった。蔵米知行制はこのような歴史的所産として登場し、幕藩制社会にもっとも適合的な知行形態となった。
[吉武佳一郎]
『鈴木壽著『近世知行制の研究』(1971・日本学術振興会)』▽『金井圓著『藩制成立期の研究』(1975・吉川弘文館)』