日本歴史地名大系 「大村市」の解説 大村市おおむらし 面積:一二六・三三平方キロ長崎市の北東に位置する。西部は大村湾に臨み、北は東彼杵(ひがしそのぎ)郡東彼杵町、東部から南東部にかけては北高来(きたたかき)郡高来町および諫早(いさはや)市、北東部は佐賀県藤津(ふじつ)郡嬉野(うれしの)町・太良(たら)町と接する。北部に郡(こおり)岳(八二六メートル)・遠目(とおめ)山(八四九メートル)・経(きよう)ヶ岳(一〇七五・五メートル)などがあり、これらを水源とする佐奈川内(さながわち)川・南川内(みなみかわち)川などが郡川に合流して北西部で大村湾に注ぐ。南部は大上戸(だいじようご)川・内田(うちだ)川・鈴田(すずた)川などが南西流して同じく大村湾に流れ込む。うち大多武(おおたぶ)を水源とする鈴田川は流路延長五・七キロ、流域面積一八平方キロ。多良(たら)岳が水源地の郡川は流路延長一五・九三八キロ、流域面積五四・六九平方キロ。市街地は西部に広がる大村扇状地に形成される。大村湾側にJR大村線、長崎自動車道、国道三四号が南北に通り、国道四四四号が北東に分岐する。大村湾の海上空港として開設された長崎空港とは箕島(みしま)大橋で結ばれる。〔原始・古代〕北部の旧石器時代の野岳(のだけ)遺跡が知られ、発見された細石核の形態からは九州で最も古い細石器文化の時期とされ、野岳・休場型細石核とよばれる。縄文時代晩期の野田(のだ)の久保(くぼ)遺跡では朝鮮半島系の孔列文土器が出土している。同晩期の黒丸(くろまる)遺跡では擦切穴を施された石包丁や竪杵のほか、運搬用の田舟(泥橇)と推定される舟形木製品が発見され、水稲が行われていたことが知られる。ただし打製石鍬の多数の出土により畑作が主体であったと推定され、六二基に及ぶ貯蔵穴もそのことを示すものであろう。富(とみ)ノ原(はら)遺跡では弥生時代中期の竪穴住居跡のほか、箱式石棺墓などが検出されたが、それより少数の甕棺から鉄戈・鉄剣が発見され、また北部九州系の丹塗土器を用いた祭祀を行っていることからも、有力層の存在を想定しうる。稗田(ひえだ)遺跡では弥生中期から古墳時代前期にかけての集落遺構が検出された。古墳時代の遺跡では四―五世紀と推定される久津(くづ)石棺群や、同時期で人骨とともに鉄剣・鉄鏃・刀子・勾玉などが出ている小佐古(こさこ)石棺群がある。大村扇状地にある黒丸遺跡では四世紀後半から五世紀にかけての土師器の壺・甕・鉢・高坏・柑の一括資料が出ている。今富(いまとみ)地区に石室の内部を朱塗りした黄金山(こがねやま)古墳があるほか、郡川の南岸にある円墳鬼(おに)ノ穴(あな)古墳は巨大な石材を用いて南に開口する、両袖式の複室の横穴式石室となっており、六世紀後半から七世紀初頭代の築造と推定される。大村湾に突き出た玖島(くしま)崎にある玖島崎(くしまざき)古墳群では十数基が確認され、鉄器・須恵器・装身具などが出ており、七世紀後半の時期が考えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大村市」の意味・わかりやすい解説 大村〔市〕おおむら 長崎県中部,大村湾の南東岸から多良岳にかけて広がる市。 1942年市制。中心市街地の大村は大村藩の城下町として発展。玖島城は慶長3 (1598) 年に築かれた天守閣のない海城で,現在城跡は大村公園となり,サクラの名所となっている。公園の付近にわずかながら城下町の遺構がみられる。 1897年に大村連隊,第2次世界大戦中に海軍工廠,海軍航空隊が設置され,軍都となる。現在は自衛隊の基地がある。大村湾内の箕島は全島が海上空港として 1975年に開港された。箕島大橋によって本土と結ばれ,西九州の空の玄関,長崎空港となり,80年からは国際空港となっている。市街地にはかつてのデンプン工業に代って食品,電機などの工業がみられる。主要な農業地域は郡川などの小河川が形成した大村扇状地で,イチゴ,野菜の栽培が発達,五寸ニンジンを特産する。長崎・佐賀両県にまたがる多良岳は多良岳県立自然公園に属する火山群で,周辺にはシャクナゲの群落がみられ,大村市側には渓谷美に恵まれた黒木盆地がある。沿岸一帯は大村湾県立自然公園に属する。旧円融寺庭園は名勝,イチイガシ天然林,大村神社のオオムラザクラはともに天然記念物。 JR大村線,国道 34号線が通り,長崎自動車道のインターチェンジがある。面積 126.73km2。人口 9万5397(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by