大村藩(読み)おおむらはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大村藩」の意味・わかりやすい解説

大村藩
おおむらはん

肥前国長崎県)彼杵(そのぎ)地方に置かれた外様(とざま)藩。領主大村氏。1587年(天正15)の豊臣(とよとみ)秀吉の九州知行割(ちぎょうわり)によって、古くから彼杵地方を支配していた大村氏(喜前(よしさき))が所領を安堵(あんど)され、廃藩置県まで続いた。1599年(慶長4)に検地が行われ、1607年(慶長12)には一族一門13家の従来の知行地は没収されて近世的領有の体制が整えられた。1612年の再検地では2万7900余石が打ち出され、これが表高となった。1631~1633年(寛永8~10)に領内総検地が実施されて蔵入地の貢租率が統一された。さらに1662年(寛文2)には、村役人費用などが加えられた貢租率に改められ、これが以後の基準になった。享保(きょうほう)の改革においては、地方知行(じかたちぎょう)制の俸禄(ほうろく)制への一時的転換、塩納入直納制の改正、郡夫役(こおりぶやく)の一部銀納化などが行われた。捕鯨も行われていたが、1732年(享保17)の大凶作以後は、鯨油が浮塵子(うんか)駆除に用いられるようになり、全国的に需要が高まったので特産品となった。藩校には寛文(かんぶん)年間(1661~1673)設置の集義館(のち静寿園)があったが、1790年(寛政2)に学制を改めて五教館(ごこうかん)が設けられ、演武場の治振軒をつくって文武併修が計られた。1811年(文化8)に地方知行制俸禄制への転換がふたたび試みられたが2年余で旧に復し、また役目部割(ぶわり)制などの藩制改革がなされた。幕末期、12代純煕(すみひろ)のとき長崎警固との関連から洋式軍制への改革が進められ、また複雑な藩内抗争のなかで尊攘(そんじょう)派が藩政を掌握してゆき、薩長両藩と連合して討幕運動に大きく関与した。1871年(明治4)7月大村県となり、11月長崎県に合併。

[長野 暹]

『『大村市史 上巻』(1961・大村市)』『『長崎県史 藩政編』(1973・長崎県)』

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百科事典マイペディア 「大村藩」の意味・わかりやすい解説

大村藩【おおむらはん】

肥前国彼杵(そのき)郡に所領を置いた外様小藩。藩政庁は大村城(玖島城とも)で,現長崎県大村市に遺構をとどめる。藩主は中世以来の大村氏で,明治維新期まで変わらない。1612年などの領内惣検地で分米高3万4897石余を打ち出したが(《大村家記》),幕府は2万7973石余を朱印高とした。大村氏は1570年に長崎を開港して南蛮(なんばん)貿易を行い,またキリシタン大名としても知られたが,1587年の豊臣秀吉による九州仕置に伴ってバテレン追放令や長崎の収公により貿易の利潤は望めなくなった。初代藩主の大村喜前(よしあき)は文禄・慶長の役を通じて家臣団を統制し,1607年には庶家一門を追放して蔵入地の割合を増大させるなど領国支配を進展させた(御一門払い)。これで藩財政の基礎は確立され,4代藩主純長(すみなが)の代に領内経営の諸機構が整備されるものの,元禄期(1688−1704)に再び財政が窮乏した。享保改革では家臣団の知行制の改革が行われ,化政期の改革では貢租の徴収体系を大幅に改め,流通統制策を推進した。幕末期には軍政の近代化などを行うなか,12代藩主純熈(すみひろ)が長崎奉行に任じられた。元治の政変により尊皇攘夷派が藩権力を握り,倒幕派軍隊が編成されて薩長両藩と行動をともにした。1871年7月廃藩置県により大村藩領をもって大村県が成立,同年11月に長崎県に編入された。

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改訂新版 世界大百科事典 「大村藩」の意味・わかりやすい解説

大村藩 (おおむらはん)

肥前国(長崎県)彼杵(そのぎ)郡大村に藩庁を置いた外様小藩。藩主大村氏。2万7973石。大村氏は鎌倉時代から地頭として擡頭し,以降中世期を通じて在地領主として発展した。1570年(元亀1)純忠は長崎を開港し,南蛮貿易を中心に外交策を展開しながら本領の確保につとめた。87年(天正15)豊臣秀吉の九州征伐後,本領を安堵され,近世大名に取り立てられたが,それと同時に発布された伴天連追放令と長崎の収公によって,貿易利潤に終止符が打たれ,藩財政は成立当初から窮乏をきたした。初代藩主喜前(よしあき)は,朝鮮出兵を契機に,兵農分離や家臣団の統制を通じて,自己の領国支配を実現したが,1607年(慶長12)〈御一門払い〉を断行し,庶家一門を追放して蔵入地を拡大し,藩権力を強化しながら成立期の財政窮乏を克服した。4代藩主純長の明暦・寛文期(1655-73)に藩制の諸機構を整備したが,元禄期(1688-1704)には再び藩財政が窮乏し,こうして,家臣団の知行制の改革を中心とする享保改革が断行され,ついで化政改革においては,貢租収取体系を全面的に改正し,強力な流通統制策を通じて,藩体制の再建,強化をはかった。さらに幕末の藩政改革においては,軍制改革および商業規制の再編成を断行する一方,元治の政変において,尊攘派は藩権力を掌握して尊王倒幕の藩論をかため,薩長両藩と行動をともにして,挙藩倒幕へと突入していった。1871年(明治4)廃藩置県によって大村県となり,のち長崎県に編入された。
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藩名・旧国名がわかる事典 「大村藩」の解説

おおむらはん【大村藩】

江戸時代肥前(ひぜん)国彼杵(そのぎ)郡大村(現、長崎県大村市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は五教館(ごこうかん)。古くからこの地を治めていた大村氏が、1587年(天正(てんしょう)15)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)九州征服後に所領2万7900石を安堵(あんど)されて立藩。初代藩主の喜前(よしあき)はキリシタン大名として知られる大村純忠(すみただ)の長男で、1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで東軍についたため徳川家康(とくがわいえやす)からも所領を安堵された。しかし、喜前は02年に日蓮宗に改宗、その後の藩主もキリシタンを厳しく弾圧した。大村氏は南蛮貿易で大きな収入を得ていたが、長崎が直轄地となったことで収入の柱が失われ、藩財政は立藩当初から窮乏した。1790年(寛政(かんせい)2)、静寿園(前身は集義館)に代わって藩校の五教館を設置。大村氏の支配は明治維新まで12代続き、幕末には薩摩藩長州藩と行動をともにして倒幕運動に参画した。1871年(明治4)の廃藩置県により、大村県を経て長崎県に編入された。

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デジタル大辞泉プラス 「大村藩」の解説

大村藩

肥前国、大村(現:長崎県大村市)を本拠地とした外様の小藩。中世から続く在地領主の大村喜前(よしあき)が、豊臣秀吉により所領2万7900石を安堵され、初代藩主となる。関ヶ原の戦い後も徳川家康に所領を安堵され、幕末まで存続した。大村氏はもとは長崎港を通じた南蛮貿易を行い、喜前の父・純忠はキリシタン大名として有名だったが、喜前は秀吉のバテレン追放令に従い日蓮宗に改修、キリシタンを厳しく弾圧した。幕末には薩長とともに倒幕運動に参加。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大村藩」の意味・わかりやすい解説

大村藩
おおむらはん

江戸時代,肥前国彼杵 (そのぎ) 郡大村地方 (長崎県) を領有した藩。関ヶ原の戦い後大村純忠の子喜前 (よしあき) が本領2万 7900石を確保し,以後廃藩置県にいたる。外様,江戸城柳間詰。旧領内にあった長崎は,徳川氏の直轄地となっていた。

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