日本歴史地名大系 「大炊殿跡」の解説
大炊殿跡
おおいどのあと
平安中期、白河・堀河二代の天皇の関白であった藤原師実の邸宅。堀河天皇の里内裏ともなった。
「拾芥抄」所収東京図は大炊御門大路南、西洞院大路東の方一町を「大炊殿」とする。これは現
大炊殿は大炊御門殿ともよばれ、鳥羽天皇の大炊殿(大炊御門北・東洞院西)や院御所大炊殿(大炊御門南・万里小路西)と混同されやすいが、それぞれ別である。
師実は永保三年(一〇八三)七月三日にこの殿に移っているが、この時新造したらしく「百錬抄」同日条に「関白移徙新造大炊御門第」とある。師実は康和三年(一一〇一)にこの邸で死去した。その間、寛治八年(一〇九四)一〇月二四日の堀河院炎上(中右記)の折には堀河天皇が遷御、里内裏となった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報