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里内裏 さとだいり

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

里内裏
さとだいり

今内裏ともいう。天皇の居所である内裏のほかにかりに設けられた皇居。平安京以後のことで,貞元1 (976) 年5月内裏が焼失したとき,太政大臣藤原兼通の娘こう子 (こうし) を后とする円融天皇が兼通の堀河第に移って,約1年間そこを里内裏としたのに始るという。

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デジタル大辞泉の解説

さと‐だいり【里内裏】

内裏の外に、一時仮に設けられた御所。多くは外戚の摂関家の邸宅を充てた。現在の京都御所も里内裏の一。里御所。今内裏。

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百科事典マイペディアの解説

里内裏【さとだいり】

里内(さとうち),今内裏とも。平安宮の外に内裏のほかに仮に設けられた皇居のこと。内裏が火災などの異変にあった場合に外戚(がいせき)の家をあてた。960年の初めての平安宮内裏炎上の後,さらに十数回の火災があり各所に里内裏がつくられた。
→関連項目高陽院京都御所内裏万寿寺

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世界大百科事典 第2版の解説

さとだいり【里内裏】

平安宮の外に平安京街に設けられた皇居。今内裏,里亭皇居,里内(さとだい)などの称もあるが,とくに大内(だいだい)と併称して里内の称が多く用いられた。 960年(天徳4)平安内裏がはじめて焼亡すると,村上天皇は累代の後院(ごいん)(離宮の一種)である冷泉(れいぜい)院に移ったが,976年(貞元1)ふたたび内裏が焼失し,円融天皇は太政大臣藤原兼通の堀河第に移って約1年間これを皇居とした。当時冷泉院が冷泉上皇の御所となっていたためであろう。

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大辞林 第三版の解説

さとだいり【里内裏】

平安京で内裏の外に、外戚などの邸を一時的に内裏として用いたもの。里内さとだい。今内裏。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

里内裏
さとだいり

大内裏の外(里)に設けられた仮の内裏。今内裏ともいう。多く摂政(せっしょう)・関白などの私邸があてられた。976年(貞元1)内裏が焼失し、再建までの間、円融(えんゆう)天皇が関白藤原兼通(かねみち)の堀河殿(ほりかわどの)を居所としたことに始まるとされる。その後、放火などにより内裏がたびたび炎上するようになると、一条(いちじょう)天皇の一条殿や、三条(さんじょう)天皇の枇杷(びわ)殿などのように、ほぼ特定の邸宅が里内裏になった。寝殿(しんでん)、対屋(たいのや)、廊などを、内裏の殿舎になぞらえて使用し、修理や再建のときは、より内裏にふさわしいように改造されることもあった。
 平安中期以後は、初めから里内裏にする予定で邸宅を造営し、天皇は日常をそこで過ごし、儀式を行うときのみ内裏に帰る、という状況が多くなる。当時の代表的な里内裏には、高陽院(かやのいん)、堀河殿、東三条殿、大炊御門殿(おおいのみかどどの)、土御門殿(つちみかどどの)などがある。本来の内裏は1227年(安貞1)に焼失してからは再建されることなく、富小路殿(とみのこうじどの)、閑院殿(かんいんどの)などが里内裏とされたが、鎌倉後期になって、大覚寺統と持明院統の対立が里内裏の選定に大きな影響を与えるようになった。
 その結果、建武(けんむ)の新政が挫折(ざせつ)したのち、足利尊氏(あしかがたかうじ)に擁立された光明(こうみょう)天皇は、大覚寺統の後醍醐(ごだいご)天皇に対抗する意味もあって、以前同じ持明院統の光厳(こうごん)天皇が位につくときに使用された土御門東洞院殿を内裏とした。以後はここが内裏として定まり、紫宸殿(ししんでん)ほかの殿舎も設けられ、火災と再建を繰り返しながら、1869年(明治2)の東京遷都まで続いた。これが現在の京都御所である。[吉田早苗]

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世界大百科事典内の里内裏の言及

【鎌倉時代美術】より

…政治,経済,文化の中心として京都は平安京の条坊制都市から京域を縮小して変貌の度を増し,二条以南,五条以北の下京を中心に一条以北の上京が新市域を形成する途上にあった。平安京の中枢部をつくる大内裏は当代初期の被災後再建をやめ,里内裏が恒常化した。里内裏のうち,閑院は1213年(建保1)の再建を機会に紫宸殿,仁寿殿,清涼殿など正規内裏の制の一部を採用した准内裏に仕立てられ,鎌倉時代および室町時代を通じて内裏の範例になった。…

【閑院】より

…方1町の広さ。東西を東三条院,堀川院の南北2町の豪邸にはさまれ,これら3邸はいずれも摂関家とのかかわりも深く里内裏になることが多かったことで有名。冬嗣のとき唐風好みの嵯峨天皇が行幸し風雅な饗宴が催された。…

【皇居】より

…なお平安宮では,朱雀門以下の宮城十二門に囲まれた,内裏と朝堂院および諸官衙等を包括して宮城と称したが,唐の長安城では,官衙や宗廟を配置した皇城が,宮城の南に完全に区別して位置した。
[平安内裏と里内裏]
 平安宮の内裏は,紫宸殿(ししんでん)を正殿とし,その北に接する仁寿殿(じじゆうでん)を平常の居所とし,その北に后妃・皇子女等の居住する後宮諸殿舎を配置したが,紫宸殿における朝儀・公事が多くなるに伴い,9世紀末から10世紀初めの寛平・延喜ころから紫宸殿の北西に位置する清涼殿(せいりようでん)が天皇の常居となるようになった。この平安内裏は,960年(天徳4)村上天皇のとき初めて焼亡し,以後焼失と再建を繰り返して鎌倉中期に及んだが,1227年(安貞1)後堀河天皇のとき焼亡廃絶した。…

【摂関政治】より

…摂関家の政所も,家政・氏政を執行する機関で,その間接的に国政に及ぼした影響は軽視できないが,それが国政機関そのものに転化したとは考えられない。また摂関政治のもとでは,里内裏(さとだいり)が盛行し,里内裏=摂関邸が政治の場となり,政所がその執行機関となったという説もあるが,実際にはこの時代の里内裏の設置は,まだ臨時かつ短期間にとどまり,ときには摂関がその邸宅を仮皇居に提供することはあっても,摂関はその間他所に転居するのが常であるから,里内裏=摂関邸とする見解は適切でなく,この面からも,いわゆる政所政治論は成り立たない。 こうして摂政・関白は,〈一の人〉として廟堂の首位を占め,百官・諸司を率いて朝儀・公事を運営したのであるが,その地位を根底で支えたのは,天皇との外戚関係である。…

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