平安宮の外に平安京街に設けられた皇居。今内裏,里亭皇居,里内(さとだい)などの称もあるが,とくに大内(だいだい)と併称して里内の称が多く用いられた。
960年(天徳4)平安内裏がはじめて焼亡すると,村上天皇は累代の後院(ごいん)(離宮の一種)である冷泉(れいぜい)院に移ったが,976年(貞元1)ふたたび内裏が焼失し,円融天皇は太政大臣藤原兼通の堀河第に移って約1年間これを皇居とした。当時冷泉院が冷泉上皇の御所となっていたためであろう。その後も内裏はしばしば火災に遭い,そのたびに四条院,堀河院,一条院を後院として仮皇居に充てたが,さらに1005年(寛弘2)の内裏焼亡に際し,一条天皇が左大臣藤原道長の東三条殿に移ってから,臣下の殿第を皇居とすることも一般化した。そして仮皇居の使用が頻繁になると,内裏の有無にかかわらず,別に皇居として造作された殿第も現れた。〈今内裏〉とたたえられた一条院をはじめ,後冷泉天皇の高陽(かや)院,白河天皇の六条院,鳥羽天皇の大炊(おおい)殿・土御門(つちみかど)烏丸殿などがそれで,これを一時的に皇居に充てた臣下の殿第や上皇の御所に対し,里亭(第)皇居と呼んだ例もある。こうして平安内裏=大内と里内裏=里内の併存が恒常化すると,大内には即位,大嘗会などの大儀や方違(かたたがえ)のため一時的に行幸するにとどまり,里内が平常の皇居となり,通常の公事もここで行われた。それはすでに平安内裏が居住様式の変化に対応できなくなり,寝殿造を基礎とした里内裏のほうが生活しやすかったためであろう。
またこの傾向は,一面では里内の内裏化を促し,その造営に当たって平安内裏の主要な機能を取り入れ,里内裏のうちの中心的な皇居=本所の地位を占めるものも現れた。鳥羽,崇徳,近衛3代の皇居となった土御門烏丸殿はその早い例であるが,さらに鎌倉時代に入って,幕府により造営された閑院は,紫宸殿・清涼殿をはじめ,平安内裏の後宮諸殿舎を除く表向殿舎の規模が本格的に取り入れられ,後鳥羽天皇以後8代の本所的皇居とされた。その間,後堀河天皇の1227年(安貞1)大内が焼亡廃絶したため,閑院は平安内裏に取って代わる皇居となったが,その閑院も後深草天皇の1259年(正元1)に焼失した後は再建されず,当時の持明院・大覚寺両皇統対立の情勢を反映して,前者は富小路殿を,後者は万里小路殿・二条殿を主要な皇居とした。しかし閑院再建の望みは消滅せず,ようやく1317年(文保1)幕府の資力により閑院内裏を模して富小路殿が新造され,花園,後醍醐2代の皇居となった。この富小路殿も1336年(延元1・建武3)戦火により焼亡し,後醍醐天皇が吉野に南遷した後は,持明院統に伝領された土御門東洞院殿が北朝歴代の皇居となり,土御門内裏として定着した。そして織田信長,豊臣秀吉の拡張修営を経て江戸時代に入り,中世的な里内裏から近世的な御所へと面目を一新し,京都御所が誕生した。
→皇居
執筆者:橋本 義彦
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大内裏の外(里)に設けられた仮の内裏。今内裏ともいう。多く摂政(せっしょう)・関白などの私邸があてられた。976年(貞元1)内裏が焼失し、再建までの間、円融(えんゆう)天皇が関白藤原兼通(かねみち)の堀河殿(ほりかわどの)を居所としたことに始まるとされる。その後、放火などにより内裏がたびたび炎上するようになると、一条(いちじょう)天皇の一条殿や、三条(さんじょう)天皇の枇杷(びわ)殿などのように、ほぼ特定の邸宅が里内裏になった。寝殿(しんでん)、対屋(たいのや)、廊などを、内裏の殿舎になぞらえて使用し、修理や再建のときは、より内裏にふさわしいように改造されることもあった。
平安中期以後は、初めから里内裏にする予定で邸宅を造営し、天皇は日常をそこで過ごし、儀式を行うときのみ内裏に帰る、という状況が多くなる。当時の代表的な里内裏には、高陽院(かやのいん)、堀河殿、東三条殿、大炊御門殿(おおいのみかどどの)、土御門殿(つちみかどどの)などがある。本来の内裏は1227年(安貞1)に焼失してからは再建されることなく、富小路殿(とみのこうじどの)、閑院殿(かんいんどの)などが里内裏とされたが、鎌倉後期になって、大覚寺統と持明院統の対立が里内裏の選定に大きな影響を与えるようになった。
その結果、建武(けんむ)の新政が挫折(ざせつ)したのち、足利尊氏(あしかがたかうじ)に擁立された光明(こうみょう)天皇は、大覚寺統の後醍醐(ごだいご)天皇に対抗する意味もあって、以前同じ持明院統の光厳(こうごん)天皇が位につくときに使用された土御門東洞院殿を内裏とした。以後はここが内裏として定まり、紫宸殿(ししんでん)ほかの殿舎も設けられ、火災と再建を繰り返しながら、1869年(明治2)の東京遷都まで続いた。これが現在の京都御所である。
[吉田早苗]
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平安宮外に設けられた仮皇居。内裏に対する称。960年(天徳4)以後,内裏焼亡のため,天皇が一時的に内裏外の後院(ごいん)もしくは後院に相当する臣下の私第に滞在することがあった。一条朝に,後院以外の里第に遷御する例が生じ,里内裏が成立したと考えられる。内裏と里内裏が併用されるようになり,鳥羽朝から天皇は,日常は里内裏に居住し,儀式・祭祀のときには内裏に赴くようになった。そして内裏と同様の構造の里内裏が朝議により造営され,他の里第に対して本所的な皇居となっていった。源頼朝が修造した閑院が著名である。一方,内裏は1227年(安貞元)の焼亡以後廃絶。南北朝の内乱をへて,里内裏だった土御門(つちみかど)内裏が北朝の皇居として定着し,現在の京都御所に継承された。
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…政治,経済,文化の中心として京都は平安京の条坊制都市から京域を縮小して変貌の度を増し,二条以南,五条以北の下京を中心に一条以北の上京が新市域を形成する途上にあった。平安京の中枢部をつくる大内裏は当代初期の被災後再建をやめ,里内裏が恒常化した。里内裏のうち,閑院は1213年(建保1)の再建を機会に紫宸殿,仁寿殿,清涼殿など正規内裏の制の一部を採用した准内裏に仕立てられ,鎌倉時代および室町時代を通じて内裏の範例になった。…
…方1町の広さ。東西を東三条院,堀川院の南北2町の豪邸にはさまれ,これら3邸はいずれも摂関家とのかかわりも深く里内裏になることが多かったことで有名。冬嗣のとき唐風好みの嵯峨天皇が行幸し風雅な饗宴が催された。…
…なお平安宮では,朱雀門以下の宮城十二門に囲まれた,内裏と朝堂院および諸官衙等を包括して宮城と称したが,唐の長安城では,官衙や宗廟を配置した皇城が,宮城の南に完全に区別して位置した。
[平安内裏と里内裏]
平安宮の内裏は,紫宸殿(ししんでん)を正殿とし,その北に接する仁寿殿(じじゆうでん)を平常の居所とし,その北に后妃・皇子女等の居住する後宮諸殿舎を配置したが,紫宸殿における朝儀・公事が多くなるに伴い,9世紀末から10世紀初めの寛平・延喜ころから紫宸殿の北西に位置する清涼殿(せいりようでん)が天皇の常居となるようになった。この平安内裏は,960年(天徳4)村上天皇のとき初めて焼亡し,以後焼失と再建を繰り返して鎌倉中期に及んだが,1227年(安貞1)後堀河天皇のとき焼亡廃絶した。…
…摂関家の政所も,家政・氏政を執行する機関で,その間接的に国政に及ぼした影響は軽視できないが,それが国政機関そのものに転化したとは考えられない。また摂関政治のもとでは,里内裏(さとだいり)が盛行し,里内裏=摂関邸が政治の場となり,政所がその執行機関となったという説もあるが,実際にはこの時代の里内裏の設置は,まだ臨時かつ短期間にとどまり,ときには摂関がその邸宅を仮皇居に提供することはあっても,摂関はその間他所に転居するのが常であるから,里内裏=摂関邸とする見解は適切でなく,この面からも,いわゆる政所政治論は成り立たない。 こうして摂政・関白は,〈一の人〉として廟堂の首位を占め,百官・諸司を率いて朝儀・公事を運営したのであるが,その地位を根底で支えたのは,天皇との外戚関係である。…
※「里内裏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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